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日本の山梨県東八代郡にあった村 ウィキペディアから
甲府盆地と富士山の間の御坂山地の中央部にある山村であり、笛吹市との編入合併直前は県内の自治体で一番人口が少なかった。スズランの群生地がある[1][2]。
東八代郡の最南端、山梨県を「国中地方」と「郡内地方」に分ける御坂山地にある山村。
富士川の支流芦川の源流部にある。
また、2006年3月1日に中道町が甲府市に編入されたことで、東八代郡で唯一の自治体となっていた。
『吾妻鏡』に拠れば、平安時代後期の治承4年(1180年)10月13日には甲斐源氏の一族が甲府盆地から富士北麓に至る若彦路を通過したとされる[7]。若彦路のルートは鳥坂峠を越えて上芦川に達し、大石峠を越え都留郡大石(富士河口湖町大石)に至ると考えられている[7]。戦国時代には中道往還が甲斐・駿河間を結ぶ道として発展し、若彦路の重要性は低下する[7]。
天正10年(1582年)の織田信忠禁制に拠れば、中芦川・上芦川は鳥坂峠を挟んだ竹居(笛吹市御坂町・笛吹市八代町)と一帯の地域で、「竹井足河惣郷」と称されたという[7]。これに対して、鶯宿(おうしゅく)は芦川上流域が含まれる九一色郷に属した[7]。鶯宿は江戸時代にも中世以来の諸役免許の特権を持ち、商業活動を行った[7]。
江戸時代には上芦川村・中芦川村・鶯宿村が成立する[7]。九筋二領では上芦川村・中芦川村は八代郡小石和筋に属し、鶯宿村は八代郡中郡筋に属した[7]。領主支配は、『慶長古高帳』によれば江戸初期には上芦川村・中芦川村が幕府直轄領、鶯宿村は旗本・渡辺氏領[7]。『元禄郷帳』では旗本・新庄領も存在している[7]。宝永2年(1705年)には三村とも甲府藩領となり、享保9年(1724年)には甲斐一国の幕府直轄領化にともない幕領・上飯田代官所支配となる[7]。延享3年(1746年)には鶯宿村が御三家・田安家領となる。
1868年(明治元年)5月には甲斐国の四境に24ヶ所の関門が設置され、上芦川村の若彦路の口留番所が改められ芦川関門となり、役人・手代が配置された[8]。明治2年10月、甲斐国の田安家領で田安領一揆が発生する[9]。村域のうち鶯宿村は田安家領に属しているが、騒動の関わりは不明[10]。
1872年(明治5年)の区制採用では三村とも八代郡第八区に属し、翌1873年(明治6年)の改正では山梨県第23区の所属となった[11]。三ヶ村の初代戸長は上芦川村が飯高重兵衛、中芦川村が芦沢善右衛門、鶯宿村が宮川吉造[12]。当初は各戸長の自宅が役場となったが、明治5年1月に中芦川村の宝珠寺内に役場が設けられ、三ヶ村は組合村となった[12]。1878年(明治11年)には郡区町村編制法が施行され、三ヶ村は旧来の八代郡が分割されて新たに発足した東八代郡の所属となった[7]。
1872年(明治5年)には学制が施行され、翌1873年(明治6年)には上芦川村では上芦川小学校が、中芦川村では中芦川学校が、鶯宿村では鶯宿小学校がそれぞれ開校した[13]。当初は各村の寺院や旧村会議所を校舎としていたが、1887年(明治20年)に三校が統合され、中芦川村に芦川尋常小学校が開校した[13]。
1889年(明治22年)には三村が組合村を結成し、1941年(昭和16年)に合併して芦川村が成立する[7]。三ヶ村の生業は、近世後期から近代初頭には鶯宿村で稲作が多く、上芦川・中芦川村では田地が少なく麦・雑穀を中心とする畑作や養蚕、製炭など山稼ぎが主要産業であった[14]。近代には養蚕が主要産業となり、副業として製炭・こんにゃく栽培を組み合わせた生業形態が成立する[7]。
国道はない。
2010年3月に、御坂山地を挟んだ富士河口湖町との間に若彦トンネルが供用され、富士北麓地域とのアクセス道路が確保された。
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