石切剣箭神社
大阪府東大阪市にある神社 ウィキペディアから
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石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)は、大阪府東大阪市東石切町にある神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内社・「石切劔箭命神社二座」。旧社格は村社。
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年(865年)9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
室町時代末期に兵火にかかり、神宮寺であった天台宗法通寺とともに社殿を焼失する。
その後復興したが、宮山の地にあった祭祀の場はいつの頃か現上之社の場所に遷された。
明治時代になると村社に列せられた。1905年(明治38年)には饒速日尊が現在の本社本殿に合祀されている。その後も、上之社のあった土地は、奥の院として信仰を集め、いよいよ再興の気運が高まり、1932年(昭和7年)に解体保存されていた本社の旧本殿を上之社に移し、1972年(昭和47年)に往古の姿を取り戻した。
当社は太平洋戦争後に神道石切教を設立させ、その総本部となっている。1975年(昭和50年)には東京都文京区に分祀され「石切東京分祀」が鎮座している。
上之社の、さらに奥には「奥宮」があるが、荒廃している(元宮)。
「石切大明神」と総称される。
石切駅方向からの参道には商店が連なっており、占い店や漢方薬店などの多種の店が集積する。
神社の公式な見解には無いが、進藤治によると「石切さんは長髄彦と深いかかわりがある。」「石切さんには長髄彦がお祀りしてある。」等の口伝があるという[2]。進藤は「石切」の音を i-si-kir・i と分解しアイヌ語で解釈することで、「長髄彦」と訳出可能であることを指摘する[3]。同じ結論を大山元も指摘しており、「石切」 i-si-kiri はアイヌ語で「その・長い・彼の足」の意味になるという[4]。
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