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日本の内閣 ウィキペディアから
犬養内閣(いぬかいないかく)は、衆議院議員、立憲政友会総裁の犬養毅が第29代内閣総理大臣に任命され、1931年(昭和6年)12月13日から1932年(昭和7年)5月26日まで続いた日本の内閣。
犬養内閣 | |
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親任式後の閣僚 | |
内閣総理大臣 | 第29代 犬養毅 |
成立年月日 | 1931年(昭和6年)12月13日 |
終了年月日 | 1932年(昭和7年)5月26日 |
与党・支持基盤 | 立憲政友会 |
施行した選挙 | 第18回衆議院議員総選挙 |
衆議院解散 | 1932年(昭和7年)1月21日 |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
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内閣総理大臣 | 29 | 犬養毅 | 衆議院 立憲政友会 |
外務、内務大臣兼任 | 1932年5月16日死亡欠缺[注釈 1][2] | |
- | 高橋是清 | 民間 立憲政友会 |
臨時兼任 (大蔵大臣兼任) |
1932年5月16日兼[2] | ||
外務大臣 | 41 | 犬養毅 | 衆議院 立憲政友会 |
内閣総理大臣、 内務大臣兼任 |
1932年1月14日免兼[3] | |
42 | 芳澤謙吉 | 外務省 | 初入閣 1932年1月14日任[3] | |||
内務大臣 | 42 | 中橋徳五郎 | 衆議院 立憲政友会 |
1932年3月16日免[注釈 2][4] | ||
43 | 犬養毅 | 衆議院 立憲政友会 |
内閣総理大臣、 内務大臣兼任 |
1932年3月16日兼[4] 1932年3月25日免兼[5] | ||
44 | 鈴木喜三郎 | 衆議院[注釈 3] 立憲政友会 |
1932年3月25日任[5] | |||
大蔵大臣 | 31 | 高橋是清 | 民間 立憲政友会 |
内閣総理大臣臨時兼任 | ||
陸軍大臣 | 21 | 荒木貞夫 | 陸軍中将 (陸大19期) |
初入閣 | ||
海軍大臣 | 15 | 大角岑生 | 海軍大将 (海大甲種5期) |
初入閣 | ||
司法大臣 | 33 | 鈴木喜三郎 | 貴族院 立憲政友会 (研究会) |
1932年3月25日免[5] | ||
34 | 川村竹治 | 貴族院 無所属 (交友倶楽部) |
初入閣 1932年3月25日任[5] | |||
文部大臣 | 40 | 鳩山一郎 | 衆議院 立憲政友会 |
初入閣 | ||
農林大臣 | 7 | 山本悌二郎 | 衆議院 立憲政友会 |
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商工大臣 | 8 | 前田米蔵 | 衆議院 立憲政友会 |
初入閣 | ||
逓信大臣 | 34 | 三土忠造 | 衆議院 立憲政友会 |
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鉄道大臣 | 10 | 床次竹二郎 | 衆議院 立憲政友会 |
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拓務大臣 | 5 | 秦豊助 | 衆議院 立憲政友会 |
初入閣 | ||
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1931年(昭和6年)12月13日任命[1]。
1931年(昭和6年)12月15日任命[6]。
1931年(昭和6年)12月15日任命[6]。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
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外務参与官 | 高橋熊次郎 | 衆議院/立憲政友会 | |
内務参与官 | 藤井達也 | 衆議院/立憲政友会 | |
大蔵参与官 | 太田正孝 | 衆議院/立憲政友会 | |
陸軍参与官 | 土岐章 | 貴族院/無所属(研究会)/子爵 | |
海軍参与官 | 西村茂生 | 衆議院/立憲政友会 | |
司法参与官 | 名川侃市 | 衆議院/立憲政友会 | |
文部参与官 | 山下谷次 | 衆議院/立憲政友会 | |
農林参与官 | 今井健彦 | 衆議院/立憲政友会 | |
商工参与官 | 加藤鐐五郎 | 衆議院/立憲政友会 | |
逓信参与官 | 坂井大輔 | 衆議院/立憲政友会 | 1932年5月9日死亡欠缺[7] |
東郷実 | 衆議院/立憲政友会 | 1932年5月14日任[8] | |
鉄道参与官 | 野田俊作 | 衆議院/立憲政友会 | |
拓務参与官 | 牧野賤男 | 衆議院/立憲政友会 | |
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
1931年12月10日、満洲事変への対処に苦慮していた第2次若槻内閣(立憲民政党)は、立憲政友会との協力内閣(大連立)によって状況を打開するべく政治工作を行っていた安達謙蔵外相の造反にあい閣内不一致をおこし総辞職。若槻礼次郎首相は安達一人の罷免により内閣存続を目論むが、西園寺公望元老は、自ら安達を罷免するのではなくて次期首相の推挙権(事実上の指名権)を持つ元老の権威に頼ろうとする若槻首相の態度を良しとせず、若槻首相の政権運営の失敗による内閣総辞職とみなして辞表を受理、憲政の常道の慣例に基づいて野党第一党・政友会の犬養総裁を首相に推挙する。この時、若槻内閣末期に政界に横行した協力内閣の政治工作は、憲政の常道に反することからこれを一掃、政党内閣制を存続させるべく、自邸には犬養首相と面会し、犬養総裁自ら、政友会単独で内閣を組織することを明言し、憲政の常道を継続させることを二人で確認した[9]。
5月15日、海軍青年将校によって犬養首相が暗殺される(五・一五事件)。犬養内閣は、高橋蔵相が内閣総理大臣臨時兼任し総辞職。憲政の常道により、後任の政友会総裁が政権を引き継ぐ見通しであったが、政友会内ではまたしても政治工作が横行し、次期総裁に選出された鈴木喜三郎以外の党外の者を首相に推薦しようとする。西園寺元老はこの時点で政党内閣制を見限り、非政党員の斎藤実海軍大将を推挙(斎藤内閣)、憲政の常道は終焉を迎えることとなった。
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