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熊本鎮台(くまもとちんだい)は、1873年から1888年まで、九州地方にあった日本陸軍の部隊である。鎮西鎮台の後身で、当時全国に6つあった鎮台の一つとして設けられ、第6軍管を管轄した。台湾出兵、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争で戦った。鎮台廃止により第6師団に引き継がれた。
明治初めの日本の軍隊は、諸藩兵を集めたもので、政府直属の軍隊はなかった。この状態を変えるため、1871年(明治4年)に、東京に御親兵、地方に鎮台を置いた。九州地方には小倉に西海道鎮台の名で設置され[1]、すぐに鎮西鎮台と改称した[2]。鎮西鎮台の本営は小倉を予定したが、当面は熊本に置くことにした[2]。本営は熊本藩旧藩主の花畑屋敷跡から熊本城本丸に移転した[3]。
それが、1873年(明治6年)7月19日制定の鎮台条例で、熊本鎮台と改称した[4]。小倉への鎮台移転は行われないままに終わった。鎮台条例は、鎮台の管轄地を軍管と呼んだ。熊本鎮台のは第6軍管で、2つの師管に分けられた。南九州の第13師管と北九州の第14師管である[4]。
1875年(明治8年)改訂の「六管鎮台表」によれば、第13師管には歩兵第13連隊、第14師管には歩兵第14連隊が配置されることになっていた。ほかに砲兵第6大隊、工兵第6小隊、輜重兵第6小隊、預備砲兵第3大隊、預備工兵第3小隊、長崎と鹿児島の海岸砲隊が熊本鎮台に属した[5]。騎兵はない。人員の総数は平時4780人、戦時6920人である[5]。しかし定員は計画上のもので、実際の充足にはなお時を要した。歩兵第13連隊と14連隊は、1875年(明治8年)9月に編成されたので[6]、それ以前(佐賀の乱まで)は大隊が基本単位であった。
鎮台の任務は、国内反乱の鎮圧と対外的な防衛にあったが、士族反乱に対する国内向けの比重が大きかった。熊本鎮台は、近代日本最初の対外戦争となった1874年(明治7年)の台湾出兵で兵力を出し、同年に勃発した佐賀の乱を鎮圧した。1876年(明治9年)の神風連の乱では鎮台司令官が殺されたが反撃して鎮圧した。1877年(明治10年)には当時の日本陸軍の総力を挙げた戦争となった西南戦争が起き、熊本鎮台の兵は熊本城に籠城して守りきった。
1885年(明治18年)6月の鎮台条例改正で、6つの鎮台の兵力が均一にそろえられた[7]。各鎮台の主力は歩兵2個旅団(4個連隊)で、これに騎兵と砲兵が各1個連隊、工兵と輜重兵が各1個大隊が加わる。また、第6軍管の管轄地に沖縄が加わった。師管は南が第11師管、北が第12師管と、番号がずれた。
しかし以上もまた計画であり、歩兵第23連隊と歩兵第24連隊の編成は1884年(明治17年)に第1大隊の編成に着手した段階であった。両連隊の編成完了は1888年(明治21年)、つまり師団制移行の年になった[8]。
1888年(明治21年)、鎮台条例は廃止になり、かわって師団司令部条例などが一斉に施行された。1885年条例の戦力を完成した熊本鎮台は、そのまま第6師団に移行した。
以下は、性格が異なる史料から紹介したもので、相互の対応はとれていない。また、多くは実際の編成ではなく、計画上のものである。
1875年(明治8年)4月7日改訂の「六管鎮台表」による[5]。
1882年から1883年頃の実際の編成状況。『改正官員録』による[10]。
鎮台条例の付表である「七軍管兵備表」と「諸兵配備表」による[7]。戦時には常備軍と同じ構成(補充隊は欠く)の後備軍が編成される予定であった。
熊本鎮台司令部と、隷下の部隊・官衙の長。『改正官員録』による[10]。
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