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清水 金一(しみず きんいち、本名雄三(のちに武雄)、1912年5月5日 - 1966年10月10日)は、日本のコメディアン、映画俳優である。浅草の軽演劇、およびトーキー初期を彩るミュージカル・コメディのスターとして知られる。愛称はシミキン。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」の流行語を生んだほか、「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」も有名なフレーズであった。
上京し、1928年(昭和3年)、16歳のときに、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、清水金一を名乗る。このころ一座の女優嶺レイ子との間に1児をもうけている。師匠金太郎は榎本健一(エノケン)と「プペ・ダンサント」(Poupée dansante、「踊る人形」の意)を結成したが、1934年4月に死去、金一は榎本の師匠柳田貞一門下に入り、森川信らが大阪・千日前に結成したレヴュー劇団「ピエル・ボーイズ」に参加する。
1935年(昭和10年)夏、浅草に古川ロッパが開いた劇団「笑の王国」に参加、また、浅草オペラ館で堺駿二とのコンビで活躍、一躍軽演劇界のスターとなる。そのころ「シミキン」の愛称がつけられる。このころ元オペラ館の女優・柴野治子と結婚している。のちに3女をもうけた。
1940年(昭和15年)2月、東宝専属となって、5月15日に公開された『豪傑人形』をデビュー作として3本の映画に主演したが、これを機に相棒の堺が廃業してしまった。1942年5月、吉本興業の傘下に入り、堺を連れ戻し、田中実(後の田崎潤)を加えて、東京吉本の浅草花月劇場にて「新生喜劇座」を結成した。その後松竹に引き抜かれ、浅草公園六区の常盤座、そのとなりの金龍館だけでなく、新宿の「第一劇場」にも出演した。シミキンのギャグが小学生に大流行し、臨監席で検閲をしている憲兵を通じてマークされるが、シミキンはセリフの覚えが悪く、アドリブ連発でこそ生きるタイプの芸人であった。相変わらず舞台でしゃべりまくったので警察に連行され、金竜館の表には「清水金一、演技脱線のため休演」と貼り紙が出たという。第二次世界大戦の戦況が深刻化し、1945年(昭和20年)6月までは空襲のなかでも変わらずアチャラカの芸風を変えなかったため、時局にふさわしくないとして、官憲にいよいよマークされたという[1]。
1945年8月15日敗戦、9月には新宿第一劇場で「新生喜劇座」を再開、11月には「清水金一一座」と改めた。また翌1946年(昭和21年)4月、エノケンプロダクションが東宝映画と提携して製作した映画に出演、5月には一座を解散した。同年8月松竹に移籍、「シミキン」の名を冠した主演映画に多く出演した。また、灰田勝彦や鶴田浩二、森川信と岸井明の「のらくらコンビ」、エノケンの映画にも出演している。1950年(昭和25年)からはフリーランスになり、東映東京撮影所作品に多く出演した。1951年、柴野と離婚、『シミ金の結婚選手』(1948年)で共演した松竹歌劇団出身の女優朝霧鏡子と結婚した。だが、戦後の新しい時代に芸が対応しきれずスランプに陥り、生来の傲慢な性格も災いして人気が下降する。
1961年2月、自殺未遂事件を起こす。同年再起してテレビ界に進出した。また戦前吉本興業に所属していたこともあって、この時期たびたび大阪の吉本新喜劇に客演として招かれている。
1966年(昭和41年)10月10日、自宅の廊下で転倒。脳内出血のため東京・渋谷区代々木富ヶ谷(現在の富ヶ谷)の自宅で死去[2]。54歳没。浅草寺境内の「喜劇人の碑」にその名を残す。
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