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朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家 (1891-1931) ウィキペディアから
浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15日 - 1931年(昭和6年)4月2日)は、朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家。朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した。彼の墓はソウル郊外の忘憂里共同墓地にある。
父・浅川如作、母・けいの次男として山梨県北巨摩郡甲村五丁田(同郡高根町五町田を経て、現在は北杜市高根町五町田)に生まれる[1]。兄は浅川伯教。1891年(明治24年)には村山西尋常小学校に、1901年(明治34年)には秋田尋常高等学校に入学する。
1907年(明治40年)4月には山梨県立農林学校に入学し、この頃に浅川政蔵と知り合う。同年6月にはメソジスト甲府教会で受洗。1909年(明治42年)4月には秋田県大館営林署に就職。
1914年(大正3年)5月には兄を追って朝鮮半島に渡り、同年9月には朝鮮総督府農商工部山林課林業試験場に就職し、養苗や造林研究に従事する。翌1915年(大正4年)には伯教に伴われて我孫子を訪ね、柳宗悦と知り合う。翌1916年(大正5年)2月には浅川政蔵の姉みつえと結婚。
翌1917年(大正6年)には『大日本山林会報』に論文を発表する。1919年(大正8年)4月には石戸谷勉と『朝鮮巨樹老樹名木誌』を刊行し、同年8月には石戸と『樹苗養成指針・第一号』を刊行する。1922年(大正11年)には林業試験場が京城郊外清涼里に移り、巧も転居している。巧は朝鮮の工芸に注目し、陶磁器や家具・民具の収集を行い、1924年(大正13年)4月には柳の発案で柳や兄の伯教とともに李朝王宮跡である景福宮内に朝鮮民族美術館を設立する。1929年(昭和4年)には『朝鮮の膳』を、1931年(昭和6年)には『朝鮮陶磁器考』を刊行する。
1931年(昭和6年)4月2日、急性肺炎のため没。40歳。京城郊外の清凉里(現ソウル市東大門区)に葬られる。のちに郊外の忘憂里共同墓地に改葬された。墓碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国の人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と書かれている。
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