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中国の明朝末期清朝初期に興った秘密結社 ウィキペディアから
洪門(こうもん、拼音:Hóng mén)は中国明朝末期清朝初期に興った秘密結社、“反清復明”(清を倒し明を復活させる)を主旨とする。洪門とは全ての山堂および反清組織を纏めた総称であり、それは天地会、三合会(三点会とも[1])、致公堂[2]、或いは紅幇など多岐に渡る。
対外部には「天地會」、対内部「洪門」と呼称しているといわれている。鄭成功を教祖と仰ぐが、実質は陳永華によるという伝承がある[3]。
清の時代も晩期になると、「洪門」の山堂は江南地方を中心に中国全体に広まり、一部が東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸まで進出し、その会員は百万単位であったという。清に対する武装闘争を堅持してきた洪門は太平天国、辛亥革命における重要な同盟軍となり、辛亥革命を起こした孫文なども洪門に加入していた。
また、中国共産党創始者の一人李大釗も、“天地会はマルクス自身が創建し指導する第一インターナショナルと組織的な繋がりを持つ中国唯一の革命団体である”と《中山主義的國民革命與世界革命》の中で述べている。
洪門組織の優れている点はその縦横系統である。職位おいては龍頭、座堂、執堂、心腹、巡風のような縦系統ではあるが、「言談」、「手勢」のような横系統をも持ち合せている。初対面である洪門に属する者同士であっても、手勢の動きを見て、「春典隠語」を聞き、「花亭結義」を話せば兄弟であり、生死の交わりであり、諸々の仇、恨みも水に流される。
洪門組織は入会資格に対し制限を設けていないが、紹介が必要である。加入した後はお互いを自分の手足であるように接しあう。故に秘密結社ではあるが、その発展は迅速なもので、世界中に広がっている。
会簿には組織の秘密が記載されており、組織の高層人物のみがこれを所有している。加入している組織のリスト、組織の構成、入会形式、誓いの言葉、組織の法に反した者への罰、隠語、手語(手話)、公衆な場所で組織員であることを示す方法などが会簿に記載されていると思われる。会簿の隠語は「海底」で、又の名を「金不換」(金に換えられない)という。
1683年に鄭成功の孫は洪門、天地会に関する文書、リストなどを鉄の箱に密封し海底に沈めた。その166年後の1848年に、洪門の郭永泰が漁師からそれを入手したと言われ、そのため「海底」と呼ばれている。三合会の会簿もそれを元につくられたと言われる。
清朝乾隆帝の治下にあっては、洪門は既に瓦解していた。明朝を復活させる希望はなく、民間における反清情緒はすでに収まっていた。それに伴い、乾隆はアメと鞭を使い漢人を重用したため、反清組織は既に存在しなくなっていた。それに代わって興ったのが地方性の組織で、宗教的な意味合いを持つ白蓮教、相互補助的な性質を持っていた天地会などが知られている。これらの組織は保護費、賭場経営、売春、アヘン館などを収入源とし、低層の者は盗み、誘拐、詐欺などを生業とした。
1992年7月28日にアメリカにて第三届世界洪門親和大会が開かれ、世界各地より集まった100人以上の代表によって二日間の議論の後、世界洪門総会の成立が宣告された。首届会長は李志鵬で、総会はホノルルに設置されている。安部英樹によれば、1998年以来、洪門本来の世界大会は開かれていないという[4]。
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