橘海雄
平安時代初期から前期にかけての貴族 ウィキペディアから
平安時代初期から前期にかけての貴族 ウィキペディアから
橘 海雄(たちばな の あまお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。弾正大弼・橘長谷麻呂の子。官位は従四位下・右京大夫。
承和8年(841年)従五位下・民部少輔次いで右衛門権佐に叙任。翌承和9年(842年)左京采女町の西北4分の1を賜与される[2]。のち、刑部少輔・兵部少輔・弾正少弼を経て、承和13年(846年)備前守として地方官に転じる。
翌承和14年(847年)には早くも左少弁に任ぜられて京官に復帰すると、仁明朝末から文徳朝にかけて弁官を務め、仁寿3年(853年)には蔵人頭兼左中弁に至る一方で、嘉祥3年(850年)従五位上、仁寿4年(854年)正五位下と昇叙されている。またこの間、嘉祥2年(849年)には渤海使の帰国にあたり勅書と太政官牒を伝達するために、参議・小野篁らと共に鴻臚館へ派遣されている[3]。
しかし、斉衡3年(856年)病気により蔵人頭を辞任し、翌斉衡4年(857年)従四位下・越前守に叙任され再び地方官に転じる。清和朝に入り貞観元年(859年)右京大夫として再び京官を務めている。
注記のないものは『六国史』による。
『尊卑分脈』による。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.