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橋立(はしだて)は、日本海軍の海防艦[11]、または防護巡洋艦[8]。 1898年に二等巡洋艦に類別、1922年に二等海防艦へ類別が変更された[11]。 艦名は名所の名前で天橋立による[11]。 艦名は砲艦「橋立」に受け継がれ、 海上自衛隊でも特務艇「はしだて」として受け継がれている[23]。
橋立 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 横須賀造船部[4][5] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 海防艦[6][7]、または防護巡洋艦[8] |
建造費 | 1,553,405円[6] |
母港 | 横須賀[9][5] |
艦歴 | |
発注 | 1887年10月10日[10] |
起工 | 1888年8月6日[11] |
進水 | 1891年3月24日[11] |
竣工 | 1894年6月26日[11] |
除籍 | 1922年4月1日[11] |
その後 |
雑役船(練習船)編入[11] 1925年12月25日廃船[11] 1926年売却[12] |
要目 | |
排水量 |
4,210トン[6] 1894年6月時:4,278英トン[7][5] |
長さ | 301 ft 10+1⁄16 in (92.00 m)[5] |
全長 | 325 ft 6 in (99.21 m)[13] |
水線長 | 301 ft 0 in (91.74 m)[13] |
垂線間長 |
310 ft 10+1⁄16 in (94.74 m)[6] または、295 ft 0 in (89.92 m)[13] |
最大幅 |
51 ft 1+7⁄8 in (15.59 m)[5][6] または、51 ft 3 in (15.62 m)[13] |
深さ |
34 ft 10+3⁄4 in (10.64 m)[6] または、35 ft 0 in (10.67 m)[13] |
吃水 |
平均:19 ft 10+3⁄16 in (6.05 m)[6][5] または平均:20 ft 0 in (6.10 m)[13] |
ボイラー |
低円缶 6基[14][15] 1920年時:宮原式缶 8基[5] |
主機 | 横置3気筒3段膨張レシプロ機関[16] 2基[17] |
推進 | 2軸[18] x 108rpm(内回り)[16] |
出力 |
計画:5,400馬力[6][16][5] 公試:4,573馬力[19] |
速力 | 16.0ノット[19][5] |
燃料 |
石炭:680トン[15] 石炭庫量:683トン[6] 1904年:石炭満載660トン[20][19] 1920年時:石炭672トン[5] |
乗員 |
1890年10月定員:377名[21] 1920年調:298名[5] |
兵装 |
32cm砲 1門[6] 12cm砲 2門[6] 47mm重砲 6門[6] 8mm5連装砲 4基[6] 魚雷発射管 4門[6] 1920年[5] 加式32cm砲 1門 安式15cm砲 4門 安式12cm砲 7門 安式8cm砲 6門 保式8cm砲 6門 保式短5cm砲 2門 麻式6.5mm機砲 1挺(警備時は2挺) 探照灯 2基 |
装甲 |
甲板平坦部:1+9/16 in(40mm)[6] 同傾斜部:1+3/16 in(30mm)[6] 露出砲塔:11+13/16 in(300mm)[6] または 甲板:2in(50.8mm)[22] 砲塔:12in(305mm)[22] 砲盾:4in(102mm)[22] |
搭載艇 | 1920年:6隻[5] |
建造にいたる経緯については、「松島」を参照。「三景艦」のうち、唯一の国産艦である。これは何としても主要艦艇の国産化を目指したい海軍の強い意向であったが、当時の日本の技術力ではまだ背伸びをしている感があった。結果として、建造期間が他2隻よりも長く、竣工したのが日清戦争開戦直前であった。一説には、この橋立の竣工を待って開戦に踏み切ったとも言われる。
日清戦争では松島、厳島とともに奮戦して清国北洋艦隊を撃破し、日露戦争では、松島、厳島、日本海軍船籍になっていた「鎮遠」の3隻と組んだ第三艦隊第五戦隊の旗艦をつとめた。
主砲の32cm(38口径)単装砲は前部甲板に据え付けられ、「厳島」と艦形が似ているが、副砲以下の装備に若干相違がある。
1887年(明治20年) 10月10日、普第4962号をもって製造着手の旨が横須賀造船所に令達された[10]。 1888年(明治21年)8月6日起工[11]。 1891年(明治24年)3月24日進水[11]。 1894年(明治27年)6月26日竣工[11]。 第一種に編入された[4]。
8月1日 日清戦争開戦、連合艦隊本隊所属。 9月17日 黄海海戦に参加[4]。 大連、旅順、澎湖島攻略作戦などに参加[4]。 1895年(明治28年)2月 威海衛攻撃終了、清国降伏。
1904年(明治37年)2月10日 日露戦争開戦、第三艦隊第五戦隊旗艦。 旅順攻略作戦、黄海海戦に参加[4]。 1905年(明治38年)5月27 - 28日 日本海海戦[4]。 樺太攻略作戦などに参加[4]。
1906年(明治39年)10月まで、大修理(大改造)を施行した[5]。
明治39年度、明治40年度、明治41年度の少尉候補生の遠洋航海に従事した[4]。
1922年(大正11年) 4月1日軍艦籍から除かれ(除籍)[11]、 雑役船に編入、練習船に指定、横須賀海兵団で使用された[4]。
1925年(大正14年) 11月30日、修理の価値無しとして廃船の上申が出され[26]、 12月25日に認許[27]、 廃船とされた[11]。 1926年(大正15年)5月1日、船体は170,000円で売却され[12]、 横須賀で解体された[4]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
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