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隋初代 ウィキペディアから
楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。文帝(ぶんてい)と称される。
疑い深い性格だったが、有能な官僚を用いて内政につとめ,科挙を創始して中央集権体制を確立し、約300年ぶりに中国全土を統一した。その治世は〈開皇の治〉と言われ、後継の唐王朝からも評価される。中国の皇帝の中で名君の一人とされる。
楊堅は、北周の大将軍の楊忠と呂苦桃のあいだに生まれた。楊氏は漢人で後漢の楊震の末裔を称したが、これには疑義が多い(#出自についてで後述)。
『隋書』の「本紀」には、楊堅の誕生に関して以下の話を載せている。楊堅が生まれたのは、541年(大統7年)6月13日、生まれた場所は、馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であり、幼名は金剛力士をあらわす那羅延であったという。この時代、熱心な仏教信者でなくとも、名前に仏教語を使用するのは一般的なことではあったが、楊堅の場合は乳母役を引き受けて養育したのが智仙という尼僧であったという。このようなことから、楊堅は幼少の頃から仏教に親しみを持っていたものと考えられる。
また、初唐の護法僧法琳の『弁正論』によると、その般若寺は北周の武帝の廃仏によって廃毀されたが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしみ、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立したと記している。
楊堅は、14歳のとき、京兆尹の薛善に召されて功曹となった。15歳で父の功績により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司となり、成紀県公に封じられた。16歳で驃騎大将軍に転じ、開府儀同三司の位を受けた。北周の明帝が即位すると、右小宮伯となり、大興郡公に進んだ。武帝が即位すると、左小宮伯に転じ、隨州刺史として出向し、位は大将軍に進んだ。父の楊忠の死後、隨国公の爵位を嗣いだ。
北斉の平定にも戦功を挙げ、位は柱国に進み、定州総管に任ぜられた。のちに亳州総管に転じた。
578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。579年、大後丞・右司武となり、大前疑に転じた。580年5月、揚州総管となるが、宣帝が死去したため、楊堅は静帝の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握した。6月以降、尉遅迥・司馬消難・王謙らに反乱を起こされたが、楊堅はこれを武力で鎮圧した。9月には大丞相となり、12月には相国・総百揆・都督内外諸軍事・隋王に上った。翌581年2月、静帝から禅譲させて皇帝に即位し、隋朝を開いた。同月中のうち、虞慶則の進言を受けて文帝宇文泰の孫の譙公宇文乾惲・冀公宇文絢、孝閔帝宇文覚の子の紀公宇文湜、明帝宇文毓の子の酆公宇文貞・宋公宇文實、武帝宇文邕の子の漢国公宇文賛・秦国公宇文贄・曹国公宇文允・道国公宇文充・蔡国公宇文兌・荊国公宇文元、宣帝宇文贇の子の萊国公宇文衎・郢国公宇文術ら、北周の皇族の宇文氏一門を多数殺害し[1]、そして5月には介国公に降封されていた宇文闡を暗殺した[2]。
楊堅は大興城(後に長安)を都として定めた。そして587年には後梁を、589年には陳を滅ぼして、西晋滅亡以来約300年にわたり乱れ続けてきた中国全土を統一することに成功した。598年には高句麗に対し第1次高句麗遠征を行った。
楊堅は内政にも力を注いだ。まず、開皇律令を公布、中央官制を三省六部に整え、さらに地方に対しては郡を廃して州・県を設置した。また、官僚の登用においても九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設けた。さらに貨幣の統一、府兵制や均田制などの新制度を設けるなど、中央集権体制を磐石なものとした。また、仏教の興隆にも尽力し、その仏教を重視した政策は、仏教治国策とまで称せられた。
楊堅の長男の楊勇が皇太子に立てられていたが、独孤皇后や楊素らの画策で廃嫡され、次男の楊広(後の煬帝)が代わって太子に立てられた。604年、楊堅は仁寿宮で病の床についたが、楊広が楊堅の寵愛する宣華夫人に手を出そうとしたことを、難を逃れた夫人から直接聞いて、「畜生になんで大事を託せようか。独孤(皇后)がわしを誤らせたのだ」と言い、「我が子を呼べ」と叫んで、楊勇を呼び出そうとした。その直後に楊堅は亡くなった。享年64。
病床の楊堅が、廃太子楊勇を呼び出そうとしたことを柳述・元厳が楊素に報告し、楊素が太子楊広に報告すると、楊広が張衡を楊堅の寝殿に派遣し、夫人や後宮の侍従が別室に離れた直後に、楊堅は亡くなったとする。
以上の説は、宮崎市定が『隋の煬帝』(中公文庫)で説くように、煬帝の暴君伝説がさまざま作られるなかで成立した部分が多いようである。唐初に成立した『隋書』では、「本紀」ではなく「列伝第一」「后妃伝」に記されている。
『隋書』倭(俀)国伝によれば、600年に倭王多利思北孤(多利思比孤)が使者を送ってきたとされる(第1回遣隋使)が、この遣隋使の記録は『日本書紀』には無い。使者が「倭王は天を兄とし、日を弟としています」などと説明したため、楊堅は「それは甚だ不合理である」と言ってこれを改めさせたという。
『隋書』「高祖本紀」では楊堅は後漢の著名な政治家である楊震の十四世孫としている。しかしこのことは疑わしい[3]。『周書』では楊堅の父楊忠の伝で楊堅の高祖父である楊元寿が北魏の初めに武川鎮の司馬とされたことから記述を始めている[4]。武川鎮とは北魏の北の防衛の要である六鎮の一つであり、鮮卑のエリートがここに配されたが、後にその価値を著しく下落させ、その不満から六鎮の乱が勃発した。この武川鎮出身者を基盤にして宇文泰が西魏・北周を建て、隋および唐の支配者集団もこの武川鎮出身者およびその子孫が大半を占めた(武川鎮軍閥)[4]。
楊元寿から後の系譜についてはほぼ歴史的事実と認められる[4]。それ以前については後から仮託したものと見る向きが強い[5][6][7][4]。
また楊氏は漢人ではなく、鮮卑人ではないかとの論もある。父の楊忠の時に北周の復古政策の一環として「普六茹(ふりくじょ)」という姓を与えられている[8](普六茹とは鮮卑語で楊を意味する[8])。しかしこれは事実が逆で普六茹が元の姓であり、漢化政策の際に楊を名乗るようになったのではないかと考えられる[9][10]。仮に漢人だったとしても鮮卑化された漢人であることは間違いなく、どちらかに確定させることにあまり意味はない[10]。
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