松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化3年6月23日〉 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の司法官僚・政治家。徳島県板野郡上板町七条出身。従一位勲一等男爵。検事総長、農商務大臣、貴族院議員。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。
検事総長や農相を歴任。学問的遺業の中には拷問制度の廃止と裁判所構成法を中心とする訴訟制度近代化の提唱が特筆されている。
山田顕義の死後、廃校決議まであった日本法律学校を立て直し、30年間にわたり日本大学の発展に寄与し、同学の礎を築いた。
- 1846年(弘化3年)6月23日、阿波国板野郡七条村(現在の徳島県板野郡上板町七条)に、徳島藩中老長谷川家家臣・松岡佐左衛門康吉の四男として生まれる。
- 1859年(安政6年)- 藩校長久館に学ぶ。
- 1861年(文久1年)- 江戸で幕府儒官・若山勿堂に入門。
- 1863年(文久3年)- 大坂の漢学塾泊園書院(現・ 関西大学)で藤沢東畡に師事。
- 1870年(明治3年)- 徳島藩庁の文学復読方に任じられ、次いで公務方応接役、民生局検事助役、少属、権大属を歴任。
- 1871年(明治4年)- 新政府に出仕、司法省権大録、司法省大録、権少判事、少判事を歴任。
- 1875年(明治8年)5月 - 東京裁判所所長。その後、神戸裁判所所長、司法大書記官を歴任。
- 1882年(明治15年)2月 - 広島控訴院裁判長。
- 1886年(明治19年)3月 - 裁判実務視察のためドイツとフランスへ出張。
- 1887年(明治20年)11月 - 欧州視察から帰国。翌月には司法大臣・山田顕義のもとで法律取調委員会の委員を命じられ、民法や商法など各種法令の調査と審議に従事する。
- 1888年(明治21年)2月 - 高等法院陪席裁判官
- 1889年(明治22年)10月4日 - 日本法律学校(後の日本大学)設立評議員。
- 1890年(明治23年)10月 - 東京控訴院長
- 1891年(明治24年)6月 - 検事総長。同年12月、貴族院勅選議員に勅任。
- 1892年(明治25年)8月 - 司法官弄花事件の影響により検事総長を辞任。
- 1893年(明治26年)- 廃校の危機に立たされた日本法律学校の存続のため中村元嘉や春木義彰らと奔走。同年12月同校第2代校長。
- 1894年(明治27年)1月 - 第2次伊藤内閣で内務次官。その後、内務省所管事務政府委員、台湾事務局委員、内務省文官普通試験委員長を歴任。
- 1898年(明治31年)1月 - 第3次伊藤内閣で内務次官に再任。同年11月行政裁判所長官。
- 1903年(明治36年)8月 - 専門学校令による大学組織「日本大学」の初代学長。
- 1906年(明治39年)1月 - 第1次西園寺内閣で農商務大臣。
- 1917年(大正6年)8月14日 - 男爵[1]
- 1920年(大正9年)10月22日 - 枢密顧問官[2]
- 1922年(大正11年)3月 - 日本大学に総長制度を導入し、初代総長。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 葉山別邸で関東大震災に遭い、死去。満78歳。従一位を追贈。
『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
『官報』第2209号「叙任及辞令」1890年11月8日。
『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
『官報』第906号「賞勲叙任」1886年7月9日。
『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。
『官報』第5696号「叙任及辞令」1902年7月1日。
『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
的野半介『江藤南白 上』南白顯彰会、1914、p643
- 国立国会図書館『松岡康毅関係文書(所蔵)』「憲政資料室の所蔵資料」、1953年。
- 国立国会図書館『松岡康毅関係文書(MF:東京大学近代日本法政史料センター蔵)』「憲政資料室の所蔵資料」2006年7月。
- 高瀬暢彦『近現代日本人物史料情報辞典』「松岡康毅」吉川弘文館、2004年。
- 高瀬暢彦『松岡康毅日記』、日本精神文化研究所、1998年。
- 『松岡康毅先生伝』松岡康毅先生伝編纂委員会、1934年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
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