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弁護士、政治家 ウィキペディアから
松井 誠(まつい まこと、1912年(大正元年)10月29日[1] - 1972年(昭和47年)11月10日[1][2][3][4])は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、参議院議員。
新潟県[2][3][4]佐渡郡真野村(真野町[1][5]を経て現佐渡市)で生まれる。両親は父の勤務地の朝鮮在住のため祖父母の元で成長した[5]。佐渡中学校[5](現新潟県立佐渡高等学校)、第四高等学校[1][5](首席卒業[6])を経て、東京帝国大学法学部法律学科に進学[5]。1935年(昭和10年)高等試験行政科試験[2][6]、同司法科試験に合格[1][2][5]。1936年(昭和11年)同大学を卒業し[1][2][3][4][5]、満州国国務院司法部の司法官となるが[1][3][4][5]、病のため1940年(昭和15年)に退官した[5][6]。義兄が勤務していた京城医学専門学校附属医院で療養後、東京帝国大学医学部附属病院に転院し、退院して1944年(昭和19年)東京の前野法律事務所で弁護士として勤めた[2][5]。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で被災し故郷の佐渡で弁護士を開業した[5][注釈 1]。
戦後、文化活動にも熱心に取り組み、佐渡新報社の設立に参画し監査役となる[5]。また真野青年団長に就任し、真野演劇研究会、河原田新劇教室、文芸懇話会を立上げて、これらの活動の中から社会主義運動に加わる[1][5]。1953年(昭和28年)演劇仲間と左派社会党佐渡支部を設立し初代委員長に就任[5]。1955年(昭和30年)新潟県議会議員選挙に立候補したが落選[1][5]。その後、日本社会党佐渡支部が統一され、1956年(昭和31年)同支部長に就任した[5]。
1958年(昭和33年)5月、第28回衆議院議員総選挙で新潟県第1区から社会党公認で出馬して次点で落選[1][5][7]。1960年(昭和35年)11月、第29回総選挙に出馬して初当選[1][2][5][8]。1961年(昭和36年)社会党佐渡支部長を辞任[5]。1963年(昭和38年)11月、第30回総選挙でも再選され[1][5][8]、衆議院議員に2期在任した[2][3][4]。この間、衆議院地方行政委員、同農林水産委員、裁判官訴追委員予備員、離島振興対策審議会委員などを務めた[1][4]。塚田十一郎新潟県知事の辞任に伴う1966(昭和41年)5月の知事選挙に衆議院議員を辞職して立候補したが、約6万票差で落選した[1][5]。佐藤芳男の死去に伴う1967年(昭和42年)11月の第7回参議院議員通常選挙・新潟県地方区補欠選挙に立候補したが次点で落選[1][5][9]。1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙で当選し[1][5][9]、参議院議員に1期在任した[3][4]。この間、参議院石炭対策特別委員長、同公害対策特別委員長、同大蔵委員会理事、同予算委員会理事、豪雪地帯対策審議会委員、社会党新潟県本部副委員長などを務めた[1][2][3][5]。1972年4月、院内で病のため倒れ、同年11月、議員在任中に死去した[5][9]。
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