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八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつ。幕府直轄領である武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された譜代旗本およびその配下の譜代武士(譜代同心)のことである。職務は多岐にわたり、関ヶ原の戦いの参陣、日光勤番、甲州街道・日光街道(日光脇往還)の整備、蝦夷地警固と開拓、八王子及び周辺地域の治安維持であった。
千人同心の前身は、武田家滅亡後の天正10年(1582年)に浜松で徳川家康に謁見した窪田助之丞正勝をはじめとする9人の小人頭である[1]。彼らは甲州九口之道筋奉行を命じられた。
1590年(天正18年)後北条氏の支配していた地域への徳川家康の国替えに伴い、八王子城下治安維持、および浅野長政領となった甲斐方面の防備のため、先述の9人を八王子に移住させた[1]。この時、240人だった人数が500人に増強された[1]。
文禄・慶長の役(1592年)の際に名護屋に2年滞陣し、1593年(文禄2年)に現在の八王子市千人町にあたる地域に移転した。
1599年(慶長4年)に関ヶ原の戦いを前にして、代官頭大久保長安の発案で、500人から1000人に増員されて「八王子千人同心」が成立した[1]。この時期、窪田正勝以下9人に窪田の倅を加えた10人で1000人を統括する形となった[1]。
慶長18年(1613年)4月、大久保長安事件が発生。多くの武田遺臣が失脚する。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣、慶長20年(1615年)3月15日大坂夏の陣に参戦。江戸の大火の時も出動が確認される。承応元年(1652年)より、交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となる[1]。
明暦元年(1655年)、朝鮮通信使が3度目の日光訪問の際、八王子千人同心が通信使の警護を担った。明暦3年(1657年)江戸城にて石坂正俊が入るべき部屋を誤って以降、八王子千人同心の同心頭一同が「躑躅間詰」から「御納戸前廊下詰」へ降格された。
宝永元年(1704年)[2]からは江戸火の番を務めたが[3]、同心の生活基盤である農耕にもたらす支障が大きかったため、宝永5年(1708年)に江戸火の番は御免となった[1][3]。
寛政3年(1791年)より文政7年(1824年)までに江戸城内にて剣術の上覧が9回行われた。寛政12年(1800年)一部が蝦夷地開拓と警固を願い出て、許可されている。享和3年(1803年)に同心であった小嶋文平が玉川兄弟の話を「書状」にした。八王子は蘭学が盛んであり、安政4年(1857年)に同心であり医師である秋山義方が青木芳斎と共に活版印刷本を出版した。
安政3年(1856年)鉄砲方・江川英敏に組織的に入門、200挺の鉄砲装備。文久3年(1863年)徳川家茂の京都上洛の警護、元治元年(1864年)武州一揆鎮圧や開港地横浜の警備にあたり[1]、慶応元年(1865年)長州征討への従軍などに従事。慶応2年(1866年)組織変更に伴い八王子千人隊と名称変更。慶応3年(1867年)11月25日甲府城襲撃阻止(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。
慶応4年(1868年)3月、戊辰戦争において官軍の板垣退助(旧武田重臣・板垣信方の末裔)が迫ると、これに礼を尽くして恭順した。
同年6月に八王子千人隊は解散した。ほとんどが農地を所有していたため帰農し、一部は静岡に移住し、一部は甲州府兵護境隊→軍務官附八王子同心→神奈川県兵となった。日光勤番として日光に勤務していた部隊も無血開城し、日光を戦火に巻き込まなかった。
八王子千人同心は、合戦において徳川直参の槍奉行の配下であり、関ヶ原の戦いでは家康本隊、長柄頭として参戦した(関ヶ原本戦の配置参照)。八王子千人同心は旗本身分の千人頭の10名によって、それぞれ100名ずつが統率された[1]。千人頭の下に100名の組頭がおり、それぞれ平同心10人を統率した[1]。組頭は現在の八王子市千人町にあった拝領屋敷に在住した。組頭の下に800人の平同心がいた。
千人頭は武田家直参旗本出身で、千人頭は200石から500石取りの旗本として遇された。
信松院にて1748年に寄進された石にて名前が確認出来るのは以下の名である[4]。
100名の組頭がおり、それぞれ平同心10人を統率した。
100組頭の下に800人の平同心がいた。
1652年(承応元年)より、八王子千人同心は日光奉行配下で警備、防火、消火を担当した。千人頭2名ほか1組50人の計100人が、10組にわかれ50日単位で交代勤務したといわれる。徳川家康霊廟を守ると言う事で、他の大名参勤交代行列を追い抜く事が許されていた。交替で日光東照宮の「火の番屋敷」に詰め、山内の見回り、出火の際の消火活動にあたった。これは楽な仕事では無く、経済的負担が大きかったが、武士としての仕事であった。
1800年(寛政12年)に公儀御料となった北海道・釧路・白糠場所には原胤敦[5][6]が、胆振・勇払場所には弟の新助率いる千人同心の子弟[7][8]が開拓を志し幕府に願い出て移住し、現在の苫小牧市や白糠町などの基礎を作った。1801年(享和元年)6月には富山元十郎と深山宇平太が幕命で得撫島(千島・得撫)に渡航しオカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」の標柱を建てた際、八王子千人同心二名も同行[9]した。同年、斜里山道も開削されたが開拓は困難を極め、1805年までに多摩地域に戻っている[10]。1807年(文化4年)にロシア船が択捉島に来航した際、同心6名が派遣された。(文化露寇)
第2回の蝦夷地移住は安政6年(1858年)行われた。秋山幸太郎、野口宗十郎、秋山惣七、粟平金平、150名程度の入植が行われたと言われており、八王子千人同心子弟と確認できるのは80名程度、多くは厄介身分(相続権の無い身分)。手当は1年1人15両と支度金1人7両(厄介は2両)道中旅費1人3両。七重村薬園前(静観園)・藤村郷の二手に分かれて入植。明治元年(1868年)箱館戦争時に官軍として旧幕府軍と交戦。入植地は焼かれた。
身分階級の厳しい徳川幕府の幕臣・御家人としては特殊な存在であり、成立の経緯から農地の所有が許可されていたため、幕末まで兵農分離以前の戦国時代の武士と変わらない半農・半武士の生活を続けた。このため、江戸時代のステレオタイプの武士とは違っていた。同心職は世襲制で千人頭の同意なく役を退く事が出来なかった。徳川政権が長期に及び、当初期・中期・末期に至る過程において、徳川直参の親衛隊として活躍し、各種の政策変換・政治闘争がありながらも武士としての義務が課された。
武士としては槍奉行管轄であり、農民としては勘定奉行管轄という二重支配を受けた。武士としての義務がありながら、農民として納税の義務があった。武士として分限帳に記載され、農民として千人同心と肩書きされ宗門人別改帳に記載された。農民との争いを避けるために武士の役目以外では名字・帯刀を禁止された。これは天正以来の武田武士として変わらない生活であり、徳川家の親衛隊・旗本として誇りをもって務めた。また、武士としての禄の他に自作農地の収入があるため、農民としても豪農が多かった。
平同心は幕府から禄を受け取ける武士としての立場でありながら、平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台などの儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。
平同心に至るまで、剣術の稽古が義務付けられ、月番日記などで流派が確認できる。寛政4年(1792年)「松平和泉守御渡書付窮」(松平乗完への書簡)にて道場の義務化が確認できる。また、浅川にて長柄の稽古を定期的に実施していた。
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