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日本の画家、漫画家 ウィキペディアから
岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年〈明治19年〉6月11日 - 1948年〈昭和23年〉10月11日)は、日本の画家・漫画家・文筆家・仏教研究家。妻は歌人・小説家の岡本かの子。長男は芸術家の岡本太郎。
津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭(本名:良信、通称:竹二郎)と母・正の長男として北海道函館区汐見町に生まれる。東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し[3]、藤島武二に師事する。この時美校の同級生、中井金三の仲介で大貫カノ(岡本かの子)と知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えた。
1910年(明治43年)に東京美術学校西洋画撰科を卒業し[4]帝国劇場で舞台美術の仕事に関わった後、夏目漱石から漫画の腕を買われ、当時朝日新聞に連載中の正宗白鳥の小説「生霊」で挿絵を担当していた名取春仙の代筆を務めたのを機に、社会部長の渋川玄耳の口添えで1912年(大正元年)に朝日新聞社に入社[5]、8月1日号に寄稿したこま絵『黒きリボンと愁たき顔』で漫画記者として同紙にデビューを果たす[6]。
以後、朝日新聞を中心とする新聞や雑誌で漫画に解説文を添えた漫画漫文という独自のスタイルを確立し、大正から昭和戦前にかけて一時代を築き上げ、美術学校時代の同級である読売新聞社の近藤浩一路とともに「一平・浩一路時代」と評された。また、「一平塾」という漫画家養成の私塾を主宰し、近藤日出造・杉浦幸雄・清水崑らを輩出している。1921年5月2日、一平は東京朝日新聞に最初の物語漫画「人の一生」の連載を開始した。
1922年(大正11年)3月、婦女界社の要請により単身で世界一周の旅に出発。途中立ち寄ったパリでは藤田嗣治に会い、7月に帰国。1929年(昭和4年)には、5月に刊行を開始した『一平全集』(先進社、全15巻)に5万セットの予約が入ったのを機に、朝日新聞の特派員としてロンドン軍縮会議取材の命を受け、同年12月にかの子・太郎にかの子の愛人である恒松安夫と新田亀三をともない渡欧。太郎をパリに残して2年3か月の間に9か国を巡り帰国した。
以後、一平は1936年(昭和11年)まで朝日新聞の漫画記者を勤め、その後はかの子とともに仏教の研究に打ち込むかたわら小説も手がけるようになり、『刀を抜いて』は映画化・舞台化が実現した[注釈 1]。
私生活では前述・大貫カノ(岡本かの子)と美術学校卒業後の1910年(明治43年)に結婚し、長男の太郎ら3人(次男・長女は夭折)の子をもうけたが、自分の公認のもとで、妻の愛人を家族と同居させるという奇妙な夫婦生活を送る。それでも歌人・仏教研究家から小説家に転じたかの子を支え、画家を志望しパリに留学していた太郎を援助し、1939年(昭和14年)2月のかの子の死まで変わらぬ夫婦生活を全うした。一平はかの子の死から14日後に追憶記の執筆をはじめ、のちに『かの子の記』として刊行。かの子の遺稿の整理・出版にも努めた。
1941年(昭和16年)1月、山本八重子と再婚。太郎とは異母弟妹にあたる4人の子、いづみ(二女)・和光(三男)・おとは(三女)・みやこ(四女)を授かる。
太平洋戦争末期の1945年3月、岐阜県加茂郡白川町に疎開[7]。終戦後、ユーモアを織り込んだ十七文字形式の短詩「漫俳」を提唱した[7]。1946年より加茂郡古井町下古井(現在の美濃加茂市)に移り、当地で没するまで文筆活動を行った[8]。一平の終の住処「糸遊庵」は太田宿中山道会館に再現されている[8]。
1948年(昭和23年)10月11日、遺作となった小説「一休迷悟」の執筆後に入浴、その直後に倒れ、脳内出血で死去[1]。享年62歳。墓所は多磨霊園。
作品の著作権は1999年1月1日時点で消滅し、パブリックドメインとなっている。
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