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山本 条太郎(やまもと じょうたろう、1867年11月6日(慶応3年10月11日) - 1936年(昭和11年)3月25日[1])は日本の実業家・政治家。三井物産の経営に携わったのち代議士となり、南満洲鉄道(満鉄)社長として満洲開発に尽力した[2]。
越前国福井城下、現在の福井県福井市に、福井藩士・山本条悦の長男として生まれる[3]。出生数日後に王政復古の大号令があり、廃藩となったため明治5年に一家で上京し、松平家の邸宅の一隅に住む[4]。このとき同藩の岡倉覚三(天心)一家と知り合い、松平康荘の遊び相手として松平家にも出入りして育つ[4]。9歳で母を亡くし、父親が再婚するまでの一時期、母の姉宏夫婦のもとで暮らす[4]。明治13年に礫川小学校を卒業後、大学予備門を目指す進学予備校の共立学校や[5]、杉浦重剛の私塾にも通う[4]。
病気のため共立学校を中退後、叔父吉田健三の紹介で明治14年に三井物産横浜支店に奉職。すぐに頭角を現し本店へ栄転するが、道楽と相場を覚えて三井の商船「頼朝丸」乗務に一年余り左遷される[4]。1891(明治24)年上海支店に赴任、1901(明治34)年上海支店長に就任[6]。帰国した翌年の1909年(明治42年)、常務取締役。1914年(大正3年)、シーメンス事件に連座して退社、裁判で一審懲役1年6か月の実刑、二審で1年6か月執行猶予4年の判決を受け、勲六等を褫奪された[7]。その後は事業家として再出発し、多くの会社の社長・役員を務める。
1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙で、福井県第1区に立憲政友会から立候補して当選、以後4選される(第16回衆議院議員総選挙以降は福井県全県区。また、最後の選挙となった第18回衆議院議員総選挙は無投票当選だった)。政友会では幹事長などを歴任し、山崎猛ら10名前後の傘下議員を抱えていた。
1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで南満洲鉄道株式会社社長(就任当時は理事会が廃止されて、満鉄トップの役職は「社長」となっていた。1929年6月20日付で総裁に再変更)。大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」とも言われたが、張作霖爆殺事件を機に後ろ盾であった田中義一内閣が瓦解し辞任する。茶人としても知られる。1935年(昭和10年)12月3日、貴族院勅選議員に任じられ[8]、交友倶楽部に所属し死去するまで在任した[1][8]。
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