山中信儀
ウィキペディアから
ウィキペディアから
山中 信儀(やまなか のぶよし、1851年2月15日(嘉永4年1月15日[1][2][3])- 1926年(大正15年)4月18日[1][3][4][5][6])は、幕末から大正期の長州藩士、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。信義の表記がある[7]。
長門国阿武郡萩城下(山口県阿武郡堀内村、萩町を経て現萩市堀内[5])で、長州藩士[注釈 1]・山中有利の長男として生れる[1][2]。四境戦争に従軍し、戊辰戦争では東北での戦いに加わった[5][6]。
明治4年12月26日(1872年2月4日)、陸軍少尉に任官[8][8]。西南戦争に従軍[1]。1893年(明治26年)5月、陸軍教導団長となり[8]、1894年(明治27年)12月、歩兵大佐に昇進[8]。1895年(明治28年)12月、歩兵第21連隊長に就任[8]。1896年(明治29年)9月、歩兵第19連隊長に異動し[8]、さらに同年11月、歩兵第37連隊長に転じた[8]。
1899年(明治32年)8月、陸軍少将に進級し台湾守備混成第2旅団長に就任[3][8]。1901年(明治34年)7月、歩兵第10旅団長に発令され[3][8] 日露戦争に出征。旅順攻囲戦、奉天会戦などを戦った[3]。
1905年(明治38年)7月、陸軍中将に進み新設の第16師団長に親補された[3][8]。1907年(明治40年)9月21日、日露戦争の功績により男爵を叙爵し華族となった[1]。1913年(大正2年)1月、後備役に編入[3][8]。1918年(大正7年)4月1日に退役した[9]。
1918年7月10日、貴族院男爵議員に選出され[10]、公正会に所属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した[4]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.