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日本の鎌倉時代中期の武将。対馬国主宗重尚養子で、宗氏2代当主。対馬地頭代(守護代)を勤めた。贈従三位 ウィキペディアから
宗 助国(そう すけくに)は、鎌倉時代中期の武将。対馬国の地頭代(守護代でもある)。文永の役の戦端が開かれた蒙古軍の対馬侵攻において、大軍を相手に少数の兵で立ち向かい、討ち死にした。
『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、10月5日(11月4日)に対馬国府の八幡宮仮殿からおびただしい炎が上がり、人々が焼け失せるかと驚いたがそれは幻であった。その日の午後、対馬の西の海は一面に蒙古の軍船に覆われた。16時頃、蒙古の船は対馬下島西岸の佐須浦(現:対馬市厳原町小茂田浜)に接岸し、船450艘、3万人の軍勢が来襲した。18時頃に国府の地頭所に連絡があり、対馬の地頭で守護少弐景資の代官でもある宗助国は、80余騎を率いて岩山の夜道を佐須浦へ馳せ向かった。翌朝、通事(通訳)を使者として蒙古人に事情を尋ねたところ、蒙古軍は7、8艘の船から1000人ばかりが降り立ち、激しく矢を射かけて攻撃を始めた。助国らは急遽陣を立て直して応戦したものの、助国をはじめ子息の右馬次郎、養子の弥次郎、他に庄の太郎入道、肥後国の御家人田井藤三郎など全員が戦死した。
蒙古軍は佐須浦に火をかけて焼き払った。小太郎と兵衛次郎という2人が博多へ船を走らせ、事の顛末を知らせた。
助国主従の亡骸を埋めた場所は、現在の対馬市厳原町小茂田地内に「御首塚」「御胴塚」として現存している。
対馬市厳原町小茂田の小茂田浜神社に祭られている。この神社では毎年11月12日の小茂田浜神社大祭において、鎧冑姿で練り歩き、海に向かって弓を放ち島の平和を祈願する「鳴弦の儀」が行われている。
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