Loading AI tools
日本の工学博士 (1960-) ウィキペディアから
天野 浩(あまの ひろし、1960年(昭和35年)9月11日 - )は、日本の電子工学者。学位は工学博士(名古屋大学・1989年)。研究分野は半導体工学。
名古屋大学特別教授、同大学未来エレクトロニクス集積研究センター長・教授、同大学赤﨑記念研究センター長、名城大学LED共同研究センター運営委員、物質・材料研究機構特別フェロー。全米技術アカデミー外国人会員。日本学士院会員[1]。
赤崎勇と共に、世界初の青色LEDに必要な高品質結晶創製技術の発明に成功した。2014年、左記の業績により、赤崎勇、中村修二と共にノーベル物理学賞を受賞[2][3]。
静岡県浜松市でスズキの技術者の子として生まれる。静岡県立浜松西高等学校卒業を経て、名古屋大学大学院工学研究科修士課程修了後、就職を考えていたが、大学4年から指導を受けていた指導教官の赤崎勇教授から「何でもこなせる学生」であると高く評価され、強い勧めを受けて博士課程に進学。1989年名古屋大学工学博士。論文の題は「GaNのMOVPE成長と光電物性及び青色発光素子への応用に関する研究」[4]。 名古屋大学工学部助手を経て、1992年から、赤崎研究室が名城大学に移ったことに伴い、退官し、名城大学理工学部講師に着任。名城大学理工学部教授を経て、2010年から名古屋大学大学院工学研究科教授。研究熱心であることで知られ、大学の研究室は、平日、休日、正月など、常に夜遅くまで明かりが灯っており「不夜城」と呼ばれた[5]。175cm、75㎏(ノーベル賞受賞時)。
小学校ではサッカーやソフトボールに、小学校高学年から中学にかけてはアマチュア無線に熱中。ソフトボールではキャッチャーを、サッカーではゴールキーパーを務めた。中学校までは勉強が嫌いだったが、数学は得意だった。高校入学直後のテストで学年10位となるなど、高校からは勉強や研究の目的は人の役に立つことであるとの考えから、勉強に真剣に取り組むようになり、毎日夜遅くまで机に向かっていたという[6]。高校受験時に、学区内トップの静岡県立浜松北高等学校(旧制浜松一中)ではなく、学区内ナンバー2の静岡県立浜松西高等学校(旧制浜松二中)にしたり、大学受験時には、大学共通第1次学力試験の結果が予想を下回ったため、志望校を京都大学工学部から1ランク落とし名古屋大学工学部に変更するなど、「何でも1ランク落として安全圏を歩く。」と母からは評される[7]。また、楽観的かつ温厚な性格で、研究室の学生によると、怒っているのを見たことがないという[8][9]。
妻は島根県浜田市出身で、島根県立浜田高等学校を経て立命館大学法学部を卒業した[10]。英語、ロシア語、フランス語など多くの言語に堪能である。ノヴォシビルスク国立教育大学(ロシア連邦)で日本語の講師をしており家にいないため、家事は夫である本人が行っているという。長女は京都大学農学部を卒業後、京都大学大学院農学研究科応用生命科学専攻修士課程を修了した[11]。長男は東京大学工学部を卒業後、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修士課程を修了した[12]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.