『万葉集』の代表的歌人。勅撰集『万葉集』に84首、『拾遺和歌集』以下に十数首入集。穂積親王の妃、のち大伴宿奈麻呂の妻 ウィキペディアから
大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘[1]。
大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、個入第3位の歌数で、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以降、最大の女性歌人である。坂上郎女の通称は坂上の里(現・奈良市法蓮町北町)に住んだためとされている(『万葉集』)[2]。
16、7歳頃に、穂積皇子に妃として嫁ぐが、霊亀元年(715年)に18、9歳で死別する[3]。この頃、首皇子(聖武天皇)と親交を持ったようである。その後に藤原麻呂の恋人となるが[2]、別離後に、天平9年(737年)7月13日に麻呂が当時流行していた天然痘で亡くなる。養老8年(724年)頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んだが[4]、その後、早くに死別したと思われる[5]。氏長の大伴旅人は、大宰府に帥で赴任するが、神亀5年頃、妻を任地で亡くし[6]、郎女はそのもとに赴き、太宰帥の家で同居し大伴家持、大伴書持を養育したといわれる[7]。この間の歌は(万葉集巻4-563・564)相聞歌2首しかない。その2年後、天平2年(730年)6月に旅人も脚の腫れ物で重態になり、立ち会う証人者を呼び遣言するが、持ちなおす[8]。同年11月郎女は先行して大和へ旅立つ[9]。だが、同年12月に旅人が帰京するが[10]、その7か月後、天平3年7月25日旅人が亡くなる(『続日本紀』)。
旅人亡き後は、大伴氏の本宅の佐保邸で、大伴氏の刀自(婦人の長老)として、大伴氏の一族を支えて、家政を取り仕切り、宗廟の祭祀、親戚の宴を主催した[11]。皇族ではない異例の、佐保邸(万葉集巻4-721)や、春日の里(同725・726)の個人地で詠んだ奉納歌を、聖武天皇に献歌していて、勢力が拡大する新興貴族の藤原氏に対抗して、氏長者の家持がまだ若い既存貴族の大伴一族を守るためと指摘されている[12][13]。郎女の作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、私的な宴で披露されたり[14]、彼らへの親しみを表したものであって、実体験ではないと言われている[15]。
天平勝宝2年(750年)、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任し、妻として同行していた娘の大嬢に贈った歌「大嬢に賜ふ歌」(万葉集19巻-4220・4221)が 郎女の最後の歌となる[16]。
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