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北海道の郡 ウィキペディアから
人口3,655人、面積369.72km²、人口密度9.89人/km²。(2024年7月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
江戸時代の増毛郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によってマシケ場所が開かれていた。陸上交通としては1857年(安政4年)に幕府の命を受けて商人の伊達林右衛門が増毛山道を開削している[1](寛政8年との資料もある)。この道は南の石狩国浜益郡から増毛に至る9里(35.3km)余を結ぶ目的で浜益、増毛の両場所請負人伊達林右衛門が自費を投じ工事を行ったものである。この他、増毛山道よりも海側に開削年不詳であるが石狩国浜益郡の千代志別と雄冬を結ぶ雄冬山道(雄冬山道は岩老まで海岸を進み、そこから山に入って増毛山道に合流)も存在した。
江戸時代初期の寛文9年6月日高国域を中心に起こったシャクシャインの戦いの際、マシケ周辺でも多くの和人が殺された。江戸時代中期の宝永年間には厳島神社が創建されている。
江戸時代後期になると文化4年国防上の理由から増毛郡域は天領とされ文化6年には津軽藩によって増毛勤番越冬陣屋が築かれた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり今度は秋田藩が元陣屋を築き警固を行った。このとき、藩士や住民の死者をまつるため秋田藩が一堂守を建立し普伝寺と名付けた。安政6年の6藩分領以降、増毛郡は秋田藩領となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して増毛郡が置かれた。
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