国民精神文化研究所(こくみんせいしんぶんかけんきゅうしょ、英語: National Spiritual Culture Research Institute[1][2])は、戦前期に東京市品川区上大崎に設置された文部省直轄の官立研究所。略称は精研(せいけん)。「皇国教学ノ指導者トシテノ信念ト識見トノ醇化」を指導方針とする教育機関[3]。終戦後、GHQから超国家主義組織として解散させられ、講師陣は公職追放された[3]。
- 1932年 - 文部省の諮問機関である学生思想問題調査委員会により、「学生生徒左傾」への対策として「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くる」べきことが答申される[4]。これにもとづき、国民精神文化研究所官制(昭和7年勅令233号)[5]が公布され、はじめ文部省内、まもなく神田一ツ橋の仮庁舎で出発。
- 1933年 - 品川区上大崎の新庁舎に新築移転。
- 1934年 - 初代所長に関屋龍吉が就任(それまでは、粟屋謙・伊東延吉が代行)。
- 1935年 - 青年学校令(学校教育法の前身)により、旧制学校と併存していた実業補習学校(12才以上)と青年訓練所(16才以上)が統合され、青年学校が創設。
- 1936年 - 『国体の本義』編纂委員に所員から紀平正美(哲学)、井上孚麿(法律)、吉田熊次(教育)が参加[6]。
- 1941年 - 2代所長に伊東延吉が就任。
- 1942年 - 国民錬成所が小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に設置される。開設にあたり紀元二千六百年式典の式殿であった光華殿の移築を行った[7][8]。
- 1943年11月1日 - 国民錬成所に移転合併する形で教学錬成所となる[9]。
- 1945年10月15日 - 教学錬成所が廃止され、教育研修所(のち、国立教育研究所に改組、現在の国立教育政策研究所)となる[10]。
事業部
- 教員研究科 - 中等教員の教育。
- 研究生指導科 - 左傾学生の再教育。
国民精神文化研究所長
- (兼務)粟屋謙:1932年8月23日 - 1934年5月29日
- 関屋龍吉:1934年5月29日 - 1941年6月14日
- 伊東延吉:1941年6月14日 - 1943年11月1日
教学錬成所長
- 伊東延吉:1943年11月1日 - 1944年2月7日(死去)
- 橋田邦彦:1944年3月1日 - 1945年9月14日(死去)
思想科(思想問題・思想運動)
- 岡田恒輔
- 米原穣
- 藤田勲
- 小川義章
- 田中久二
- 岡野徳右エ門
- 三木勲
- 利根川東洋
- 森昌也
- 中山幸
- 『国民精神文化』
- 『国民精神文化文献』(1936年創刊)
- 『戦争文化』(1939年創刊)
- 『書紀集解 全4巻5冊』(1936年〜1940年)国立国会図書館リサーチ「書紀集解」
「国体の本義」編纂委員決まる『大阪毎日新聞』昭和11年6月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p712 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
昭和20年勅令第571号「文部省内臨時職員設置制中改正」により教学錬成所廃止、勅令第572号「教育研修所官制」により教育研修所設置。法制上は教学錬成所の廃止と教育研修所の新設が同時に行われた形である。ただし、実際には旧教学錬成所の「錬成官」が教育研修所の研修所員および事務官に任命替えされており、施設もそのまま引き継がれている。国立教育研究所 編『国立教育研究所十年の歩み』国立教育研究所、1961年12月25日、2-5頁。