山形県東置賜郡中川村(現在の南陽市)出身[1][2]。1897年(明治30年)第一高等中学校卒業[2]、1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業[2]、大学院に学んだ。1903年(明治36年)、倫理学研究のためフランス、ドイツに留学した[2]。1904年(明治37年)、東京女子高等師範学校教授・東京高等師範学校教授に就任[2]。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学助教授[2]、1912年(明治45年)には文学博士の学位を取得した[2]。1916年(大正5年)、東京帝国大学文学部教授に就任[2]。1934年(昭和9年)東京帝国大学を退官し、名誉教授となった[2]。同年、国民精神文化研究所研究部長[2]。
1936年(昭和11年)には『国体の本義』の編纂委員を務めた[5]。
1943年(昭和18年)国民精神文化研究所を退官[2]。1964年(昭和39年)7月15日、肺炎のため死去[2]。
- 『ドェーリング氏教育学』(育成会、1901年)
- 『ベルゲマン氏社会的教育学及進化的倫理学』(育成会、1901年)
- 『社会的倫理学』(有朋館、1904年)
- 『社会的教育学講義』(金港堂、1904年)
- 『現今の教育及倫理問題』(金港堂、1904年)
- 『実験教育学の進歩』(同文館、1908年)
- 『系統的教育学』(弘道館、1909年)
- 『訓練論』(弘道館、1910年)
- 『教育的倫理学』(弘道館、1910年)
- 『女子研究』(同文館、1911年)
- 『国民道徳と教育』(目黒書店、1911年)
- 『教育教授の諸問題』(目黒書店、1913年)
- 『国民道徳の教養』(弘道館、1913年)
- 『社会教育』(敬文館、1913年)
- 『教育学教科書』(目黒書店、1915年)
- 『独逸の教育』(冨山房、1915年)
- 『現今教育思潮批判』(日本学術普及会、1915年)
- 『教育史教科書』(目黒書店、1917年)
- 『教育の米国』(冨山房、1918年)
- 『我が国民道徳』(弘道館、1918年)
- 『各科教授法教科書』(目黒書店、1919年) - 大庭儀三郎と共著
- 『輓近教育問題の研究』(天佑社、1919年)
- 『国民道徳とデモクラシー』(目黒書店、1919年)
- 『教育大意要義』(目黒書店、1920年)
- 『現今教育学説の根本思潮』(目黒書店、1921年)
- 『倫理上より観たる我国体』(明治出版社、1921年)
- 『子供を良く育てる法』(大日本児童協会、1922年)
- 『本邦教育史概説』(目黒書店、1922年)
- 『最近教育思潮』(教育研究会、1923年)
- 『新教育思潮の批判』(教育研究会、1923年)
- 『輓近の教育及教育学』(教育研究会、1925年)
- 『教育の根本概念』(都村有為堂出版部、1925年)
- 『国体と倫理』(冨山房、1925年)
- 『倫理学概論』(目黒書店、1926年)
- 『教育学原論』(教育研究会、1927年)
- 『教育史綱要』(目黒書店、1927年)
- 『教育学綱要』(目黒書店、1928年)
- 『本邦教育史概説』(目黒書店、1929年)
- 『陶冶と価値』(目黒書店、1929年)
- 『西洋教育史概説』(目黒書店、1930年)
- 『女子教育の理念』(同文書院、1931年)
- 『教育及び教育学の本質』(目黒書店、1931年)
- 『社会教育原論』(同文書院、1934年)
- 『教育学説と我が国民精神』(目黒書店、1934年)
- 『国民思想と教育』(青年教育普及会、1935年)
- 『日本教育の理念』(北海出版社、1936年)
- 『修身教授と国民道徳』(弘道館、1937年)
- 『教育目的論』(目黒書店、1938年)
- 『日本教育の理念』(啓文社、1939年)
- 『国民学校教育論』(教育研究会、1941年)
- 『ソ聯邦に於ける教育改革と教育思想』(畝傍書房、1942年)
- 『教育方法論』(目黒書店、1942年)
- 『国民学校教育論』(教育日本、1943年)
- 「敎育者としての西村茂樹」『教育』第1巻 1号、1933年
「国体の本義」編纂委員決まる『大阪毎日新聞』昭和11年6月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p712 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 東京編』帝国秘密探偵社、1942年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。