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大日本帝国海軍の重巡洋艦 ウィキペディアから
古鷹(ふるたか)は大日本帝国海軍の古鷹型重巡洋艦1番艦である[5]。艦名は江田島の海軍兵学校そばにある古鷹山に由来する[6]。平賀譲造船官が設計した。1942年10月、サボ島沖海戦で沈没した。
古鷹 | |
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基本情報 | |
建造所 | 三菱造船長崎造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 重巡洋艦 |
級名 | 古鷹型重巡洋艦 |
艦歴 | |
発注 | 1922年6月 |
起工 | 1922年12月5日 [1] |
進水 | 1925年2月25日 [1] |
竣工 | 1926年3月31日 [1] |
最期 | 1942年10月12日、米艦隊の砲撃により沈没 |
除籍 | 1942年11月10日 [2] |
要目(新造時 → 改装後[3]) | |
基準排水量 | 7,950トン → 8,700トン |
公試排水量 | 9,544トン → 10,630トン |
全長 | 185.166 m |
最大幅 | 16.55 m → 16.926 m |
吃水 | 5.56 m → 5.61 m |
主缶 | 艦本式缶重油専焼10基、同混焼2基 → 艦本式重油専焼缶10基 |
主機 | 三菱パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸 |
出力 | 102,000馬力 → 103,340馬力(公試成績) |
速力 |
34.6ノット(公試成績) → 32.95ノット(公試成績) |
燃料 |
重油:1,400トン、石炭:400トン → 重油:1,858トン |
航続距離 | 14ノットで7,000海里 |
乗員 | 627名 → 639名 |
兵装 |
竣工時[4] 50口径20cm単装砲6門 40口径8cm単装高角砲4門 61cm連装魚雷発射管6基12門 八年式魚雷24本 改装後 50口径20.3cm連装砲3基6門 45口径12cm単装高角砲4門 61cm4連装魚雷発射管2基8門 九三式魚雷16本 |
装甲 |
舷側76mm 水平32-35mm 主砲25mm |
搭載機 |
1機 → 2機 (カタパルト0 → 1基) |
大正時代中期までの日本海軍の主力巡洋艦は5500トン型軽巡洋艦で、同じ太平洋で強力な海軍を持つ米国のオマハ級軽巡洋艦に比べて軍艦性能で大きく後れを取っていた。平賀は基準排水量2890トンの船体に5500トン型軽巡洋艦に匹敵する兵装を備えた軽巡洋艦夕張を設計し、軍艦設計技術の高さを世界に示した[7]。平賀は夕張に引き続き、米国の15cm砲搭載軽巡洋艦に対抗できる兵装を備えつつ、快速で中部太平洋まで行動できる高い航海性能を備えた偵察巡洋艦として、夕張のコンパクトな設計思想を引き継いだ7100トン級巡洋艦を設計した[8]。これが古鷹型である。当初の計画では14cm砲を搭載する予定だったが、1922年(大正11年)2月に終了したワシントン海軍軍縮条約で、巡洋艦が「排水量10,000トン以下、砲口径5インチ以上8インチ以下」と定義された一方、保有トン数の制限は設定されなかった。そのため搭載する主砲は、条約下で米国巡洋艦を上回る20cm単装砲6基6門に変更された。
1922年(大正11年)8月11日、1番艦に衣笠、2番艦に古鷹の艦名が与えられた[9]。10月9日、1番艦の艦名が加古に変更された(詳細は加古参照)。12月5日、加古より18日遅れて三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工した[1]。1925年(大正14年)2月25日に進水[1][10]、1926年(大正15年)3月31日に竣工し[1]、横須賀鎮守府籍となった[11]。竣工時点で加古はクレーンの事故などで竣工しておらず、加古の竣工は7月20日と約4か月遅れた[12]。この結果、11月29日の艦艇類別等級表の改訂で古鷹が1番艦となった[13]。ただ計画段階から加古型(加古級)の呼称が浸透しており、改訂後も古鷹型と並んで加古型の表記が広く使われた。
古鷹と加古は20cm単装砲を前甲板と後甲板の中心線上に3基ずつ並べ、煙突を巨大化し、航行性を高めるために波型の甲板を採用した事に特徴がある[14]。ただ主砲の装填は人力式で、機械式に比べて給弾の遅さが建造当初から問題視されていた。準同型艦の青葉型重巡洋艦では機械装填式の20cm連装砲塔3基6門に変更されており、建造当初の古鷹型と青葉型の外見上の大きな違いとなった。
1926年(大正15年)4月1日、古鷹は第五戦隊に編入された[15]。当初は古鷹、軽巡名取、軽巡由良、軽巡川内と5500トン型軽巡洋艦と戦隊を編制していた。9月25日、乗艦中の高松宮宣仁親王(海軍少尉)が長崎造船所で行われた青葉の進水式に立ち会うため、古鷹も進水式に参加した[16][17]。12月1日、第五戦隊は古鷹、加古、軽巡神通、軽巡那珂となった[15]。
1927年(昭和2年)8月24日、第五戦隊は島根県の美保関沖で演習中に僚艦が衝突する美保関事件に遭遇した。神通、那珂などが大破したが、古鷹は各艦と協力して沈没した駆逐艦蕨と損傷艦の救援に従事した[18]。古鷹は戦艦比叡と共に損傷した那珂を護衛して舞鶴へ移動した[19]。 那珂乗艦中の皇族博義王が古鷹に移乗した[20]。
1927年(昭和2年)12月1日の再編で、第五戦隊に古鷹、加古、青葉、衣笠の重巡洋艦4隻が初めて揃った[21][22]。古鷹は以降、太平洋戦争開戦まで3艦と共に第五、第六、第七戦隊を歴任した。1932年(昭和7年)2月1日、呉鎮守府籍に転籍した[11]。1934年(昭和9年)6月29日、済州島沖で行われた演習に参加し、駆逐艦深雪と駆逐艦電が衝突して深雪が沈没した。
1936年(昭和11年)8月14日午前4時、訓練終了後に青葉、衣笠、古鷹が縦列で航行中、衣笠が青葉の艦尾に衝突事故を起こした[23]。後続の古鷹は衝突せず、同年度では無事故で演習でも優秀な成績をおさめた古鷹の評価が高まったという[24]。
完成時に優秀な巡洋艦とされた古鷹型も、妙高型重巡洋艦や高雄型重巡洋艦など1万トン級巡洋艦の就役と、大正~昭和初期の兵装や主機関、軍事装備品の急速な進歩に伴い、昭和10年代には重巡洋艦として性能や装備の遅れが目立ってきた。このため古鷹と加古は日本の重巡洋艦としては例外的に大規模な近代化改修を施し、船体、主機関や主砲塔の全換装、上部構造の大幅な改装が施された。古鷹は加古より遅れて1937年(昭和12年)3月16日に呉海軍工廠で着手し[11]、1939年(昭和14年)4月30日に完成した。主砲塔は青葉型とほぼ同じ20.3cm連装砲3基6門で、魚雷発射管を艦内から甲板上に移設し61cm4連装魚雷発射管2基8門、九三式魚雷16本としたほか、高楼式の艦橋が連結構造になり、主機関の変更に伴って煙突が構造変更された(詳細は古鷹型重巡洋艦参照)。
1940年(昭和15年)5月2日、内閣首脳の体験航海のため横浜に入港[26]。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式で加古と共に供奉艦として参列した。1941年(昭和16年)3月1日の戦隊編制変更で、第一艦隊第六戦隊に古鷹、加古、青葉、衣笠の4隻が再び揃い、太平洋戦争開戦時の態勢が整った。9月15日、第六戦隊司令官に 五藤存知少将が就任した[27]。
1941年11月7日に第六戦隊(「青葉」、「加古」、「衣笠」、「古鷹」)は南洋部隊に編入され、グァム島攻略支援部隊としてグアム島攻略作戦に参加した[28]。第六戦隊は11月30日に柱島泊地を出港して12月2日に母島に到着[29]。12月4日の攻略部隊の母島出撃に続いて第六戦隊も出撃して敵水上部隊に備え、上陸成功後はトラックへ向かい12月12日に到着した[30]。
グアム島攻略と同じ頃行なわれたウェーク島攻略作戦は失敗に終わっており、第二次攻略作戦には第六戦隊も投入されることとなった。第六戦隊はウェーク島攻略支援部隊となった[31]。第六戦隊は12月13日にトラックを出港して12月16日にルオットに到着[32]。12月21日に攻略部隊などが出撃し、第六戦隊もそれに続いて出撃した[33]。ウェーク島は12月23日に攻略された[34]。第六戦隊はウェーク島東方を行動し、攻略後は南下して攻略部隊の支援にあたり、12月25日にルオットに帰投[35]。1942年1月7日にルオットを出港し、1月10日にトラックに到着した[36]。
1942年(昭和17年)5月上旬、古鷹以下第六戦隊はMO(ポートモレスビー)攻略部隊に所属し、珊瑚海海戦に参加した。五藤少将が指揮するMO攻略部隊主隊は青葉、加古、衣笠、古鷹、空母祥鳳、駆逐艦漣で編制されていた。5月7日、MO攻略部隊は空母ヨークタウン、レキシントン攻撃隊の空襲を受けた。祥鳳が沈没し、第六戦隊は乗員の救助を行ったが、退避命令が出たため現場海域を離れた[37]。20時40分、第六戦隊から古鷹と衣笠がMO機動部隊に編入され[38]、青葉、加古と分かれた。5月8日朝、古鷹と衣笠はMO機動部隊(空母瑞鶴、空母翔鶴、重巡妙高、重巡羽黒、駆逐艦6隻《曙、潮、有明、夕暮、白露、時雨》)と合流した[39]。ただ「第六戦隊ハ航空戦隊ノ後方五キロニ続行セヨ」以外の指示がなく、また空母を中心とした輪形陣を組まなかったため、各艦は単独で米軍機動部隊艦載機の空襲に対処する事になった[40]。古鷹と衣笠は翔鶴の後方約8000m地点を航行中に空襲を受けた[41]。翔鶴が大破したため、古鷹は衣笠、夕暮、潮と共に、戦場を離脱する翔鶴を一時的に護衛した[42]。珊瑚海海戦の結果、ポートモレスビーの攻略は延期となり、第六戦隊は本土で整備を行うことになった。古鷹は6月5日に呉に到着した[11]。ミッドウェー海戦で大敗した日本海軍はソロモン諸島防備を強化する方針を打ち出し、第六戦隊4隻は南方へ戻った。古鷹は7月4日、トラック泊地に到着した[11]。
1942年(昭和17年)8月7日、米軍はツラギ島とガダルカナル島に上陸し、南太平洋での本格的な反攻に転じた。ラバウルに向かっていた第六戦隊はガダルカナル島上陸の急報を受け、急きょ三川軍一中将の指揮下で重巡鳥海、軽巡天龍、夕張、駆逐艦夕凪と共に「挺身艦隊(挺身攻撃隊)」を編制した。艦隊は単縦陣を採り、鳥海、青葉、加古、衣笠の後に古鷹が続いた。8月8日深夜、同島北部のサボ島南側水道に突入し、午後11時43分に輸送船団を護衛していた米豪連合軍艦隊と最初の夜戦に入った。直後に雷撃を受けた豪重巡キャンベラが炎上して古鷹に接近し、さらに右舷から魚雷2本が接近したため、古鷹は左に転舵した。この結果、古鷹は先行艦と分離し、天龍、夕張が古鷹の後に続いた[43]。午後11時53分、鳥海がサボ島北側水道の別艦隊を発見し、米重巡アストリアに砲撃を加えた。この戦闘で、先行艦4隻と、分離した古鷹など3隻が期せずして左右から連合軍艦隊を挟撃する陣形となった。連合軍は重巡4隻が沈没し、日本が勝利を収めた。記録によれば、古鷹は主砲153発、高射砲94発、25粍機銃147発を発射した[44]。
海戦後、第六戦隊4隻は鳥海、天龍、夕張、夕凪と分かれ、ニューアイルランド島カビエンへ向かった[45][46]。8月10日朝、加古が米潜水艦S-44の魚雷攻撃により沈没した[45]。第六戦隊各艦はカッターボートなどを降ろしてカビエンへ向かった[47]。その後、古鷹など第六戦隊3隻はカビエンで加古の乗員を収容した[48]。
8月、古鷹、青葉、衣笠の第六戦隊と鳥海はガダルカナル島に兵員の揚陸を目指す輸送船団を支援するため、同島北方に向かった[49]が、8月24-25日に起きた第二次ソロモン海戦で第六戦隊が交戦する機会はなかった[49][50]。8月27日夕刻、古鷹は青葉と共にショートランド泊地に到着した[51]。
第二次ソロモン海戦に敗れて兵員揚陸に失敗した日本軍は、ガダルカナル島への昼間の大規模な輸送揚陸が困難になったことを認識し、高速の駆逐艦による反復輸送(鼠輸送)への転換を余儀なくされた。さらに米軍が同島に完成させたヘンダーソン飛行場の無力化が、戦略上の喫緊の課題となった。ヘンダーソン基地艦砲射撃の作戦が立案され、10月11日、五藤少将が率いる第六戦隊と第11駆逐隊の初雪、吹雪がガダルカナル島に向かった[52][53]。第三戦隊(司令官栗田健男中将)の戦艦金剛、榛名、第二水雷戦隊の軽巡五十鈴などによる第二次飛行場砲撃隊も準備され、10月11日、第二航空戦隊の隼鷹、飛鷹と共にトラック泊地を出撃した[54][55]。飛行場砲撃に先行してガダルカナル島への揚陸作戦が行われ、周辺海域には水上機母艦日進、千歳、駆逐艦秋月、綾波、白雪、叢雲、朝雲、夏雲の輸送隊が行動中だった[56]。当時、輸送隊や基地航空隊は米艦隊の動向をつかんでおらず[57]、日本側は米軍が水上部隊で反撃する可能性は低いと判断していた[58]。だが米軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻が迎撃の態勢を整え、10月11日夜間に第六戦隊をサボ島沖で迎え撃った[59][60]。
10月11日夜、旗艦青葉は第六戦隊の左前方に出現した米艦隊を、日進などの輸送隊と誤認し、「我レ、アオバ」と発信。21時43分、青葉は米軍が放った照明弾下で砲撃を受け、初弾が艦橋を貫通して五藤少将らが戦死した[61][62]。青葉は右に転舵し、煙幕を張って避退した[63]。後続の古鷹は吊光弾を見て左に転舵し右砲戦に備えたが、青葉の右転舵を見て右に変針した[64][62]。しかし古鷹は煙幕に入りきれず、米艦隊の砲撃で魚雷の酸素が誘爆して大火災となり、夜間で格好の射撃目標となった結果、三番砲塔旋回不能、魚雷発射管破壊、機関室砲弾貫通、左舷浸水、機関故障と被害が拡大した[59]。古鷹は主に高射砲で応戦、主砲発射弾数は40発以下だったが、第二射以後で敵3番艦に損害を与えたという[59][62]。青葉は古鷹に砲火が集中する間に海戦域から離脱した[65]。青葉の右前方にあった吹雪は集中砲火を受けて沈没し、古鷹に後続していた衣笠と初雪は米重巡ソルトレイクシティー、軽巡ボイシと砲戦して損傷を与えた[66]が、サボ島沖海戦は日本軍の敗北に終わった。
青葉、衣笠、初雪が離脱して海戦が終了した後も古鷹は海上に浮かんでいたが、水線下への被弾による浸水が進み、22時40分頃に航行不能となった[66]。米駆逐艦とみられる艦が接近したが反転し、交戦はなかった[50]。救援に向かっていた初雪との交信に成功し[67][50]、報告した位置より西に流されていた古鷹を初雪が発見した[68]。すでに左舷への傾斜が激しく、初雪は接舷を断念した[66][50]。軍艦旗を降ろした後、古鷹は艦尾から沈没した[59]。沈没時刻10月12日午前0時28分、沈没地点サボ島の310度22浬[66]。荒木艦長ほか生存者は初雪[69]に救助されたが、日の出以降に空襲が予想されたため救助活動は午前2時で打ち切られた[66][70]。初雪はカッターボート2隻と円材を海上に残して帰投した[68][71]。
古鷹の救援に日進輸送隊から第9駆逐隊の朝雲と夏雲、第11駆逐隊の白雪 [72]、叢雲が向かったが、夏雲と叢雲が空襲で沈没した[73][74]。10月16日時点での古鷹乗員の戦死者は33名(内士官2)、行方不明者は225名(内士官16)、救助518名(内士官34)[59][75]で、生存者の一部はニュージーランドの収容所と米軍捕虜尋問所「トレイシー」に移送された[76]。11月10日、古鷹は除籍された[2]。同日、第六戦隊は解隊[77][78]。古鷹の乗員は青葉に乗艦し呉に帰投した[79]。 11月14日、第三次ソロモン海戦で衣笠が米軍機の空襲を受けて沈没した。古鷹型と青葉型はソロモン海で3か月間に3隻を喪失し、青葉1隻となった。
ポール・アレン創業の調査チームが本艦をサボ島の沖合北西水深1400m地点で発見したと発表した。同チームは2019年2月25日の時点で発見していたという[80]。
※『艦長たちの軍艦史』87-89頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
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