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日本の海軍少将 ウィキペディアから
町田 進一郎(まちだ しんいちろう、1884年〈明治17年〉12月13日 - 1936年〈昭和11年〉3月29日)は、日本の海軍軍人。海兵35期、海大甲種16期。大日本帝国海軍第一水雷戦隊司令官、ナポレオン戦術の第一人者。最終階級は海軍少将。従四位勲三等。
埼玉県出身。父は陸軍一等薬剤官・大阪共立薬学校初代校長を務めた町田伸、母は津留子。5人兄弟姉の長子であった。
東京府立第一中学校を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校35期に入校。1907年(明治40年)11月20日、海兵35期を172人中5番の成績で卒業。海軍少尉候補生となり、巡洋艦「橋立」乗組。1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発し、日本がドイツ帝国に宣戦布告し。町田進一郎は戦艦「河内」の砲術分隊長を務め、青島ドイツ軍陣地への爆撃作戦に参加した。1916年(大正5年)12月1日、海軍大学校の甲種学生16期生となる。1918年(大正9年)海大甲種第16期卒業。1920年(大正9年)12月1日、海軍少佐に昇進。第一次世界大戦後のシベリア出兵の間、町田は駆逐艦初霜の駆逐艦長を務め、ロシア「沿海州」での警戒活動に従事していた。1920年の終戦後、勲四等旭日小綬章を授与されている。
1927年(昭和2年)11月15日、町田は第9駆逐隊司令に任命され、12月1日に第九駆逐隊は当時、旅順を本拠地として警備任務に当たっていた第二遣外艦隊に編入された。
1928年(昭和3年)3月、蔣介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入したため、支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され。町田は、第6師団を運ぶ第33旅団の将兵数千人が青島に上陸する際に、その支援をするよう命令を受けた。27日、第9駆逐隊は青島に到着し、[1]。町田の率いる第9駆逐隊は現地の居留民を保護し、青島に撤退した。その後、第九駆逐隊は山東高角以北の警備に従事した。町田はこの功績により、勲三等旭日中綬章を授与された。
1933年(昭和8年)11月、町田は第一水雷戦隊司令官に着任した。当時は、1930年のロンドン海軍軍縮条約批准にあたって統帥権干犯問題として表面化した海軍の条約派と艦隊派の乖離が頂点を迎えており、同年に「省部互渉事務規定」の改訂、大角人事が行われるなど部内では混乱が続いていた。
町田は艦隊派の将星として有名であり、例えば西園寺公望の私設秘書官であった原田熊雄の口述した記録である『西園寺公と政局』の中にその一端が現れている。それによると、「まず第一に、加藤大将は町田進一郎大佐(第一水雷戦隊司令官)を呼び、艦隊派は結束して強硬な態度をとらなければいかん。」、「町田大佐はすぐ艦隊に帰り、第二艦隊の重巡高雄艦長南雲忠一大佐と一緒になって、連合艦隊の各艦長を訪ね、結束して上申書を出せ」[2]との記述がある。また、町田は1935年頃から盛んに唱えられていた日米開戦必至論者でもあった。町田は対米開戦の強硬派ではなかったが、1935年に原為一大佐に対して、「日米開戦となれば、いま日本海軍には、適当な海上指揮官がいない。多年海上で腕を鍛え、微細のことにも警戒を怠らず、創意に富み、新戦術を得意とする将軍がいない。おれはそれが心配だ。きみたちは若い、大いに海上で、腕を練れ」と話している。[3]。
1935年(昭和10年)5月に岩手県沖で行われた演習では、町田は第一水雷戦隊と第二水雷戦隊の連合水雷編隊を指揮しており、演習で南雲忠一艦長の指揮する戦艦山城を撃沈する計画で行動を行っていた。演習では神通と山城が接近し、危険を感じた近藤信竹第一艦隊参謀長がたまらず「艦長、取舵!」と叫んだが、南雲艦長は「参謀長に指揮権はない!面舵一杯!」と怒鳴りつけたと言う。同時に神通もようやく面舵を切り、両艦は衝突を免れた。演習後、町田は神通から「ヒヤヒヤさせるじゃないかいな」[4]と冗談めかした発光信号を南雲に送っている。
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