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勝見 庸太郎(かつみ ようたろう、1893年9月11日 - 1962年9月1日[1])は、日本の俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は勝見 國一(かつみ くにかず)[2]、号の黙笑(もくしょう)[1] は、脚本・原作執筆時に使用した。松竹蒲田撮影所から独立して勝見庸太郎プロダクションを設立、京都の牧野省三のマキノ・プロダクションと配給提携した[2]。妻は元女優の花川環。
かつみ ようたろう 勝見 庸太郎 | |
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1923年頃の写真 | |
本名 | 勝見 國一(かつみ くにかず) |
別名義 | 勝見 黙笑かつみ もくしょう |
生年月日 | 1893年9月11日 |
没年月日 | 1962年9月1日(68歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷) |
死没地 | 日本 東京都杉並区馬橋(現在の同区阿佐谷南) |
職業 | 俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー |
ジャンル | 新派、新劇、劇映画(時代劇・現代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1910年代 - 1958年 |
活動内容 |
1910年代 新派から新劇へ 1920年 松竹蒲田撮影所設立に参加 1922年 脚本家デビュー 1925年 監督デビュー 1926年 独立、マキノと提携 1930年 解散 1938年 東京発声へ出演 |
配偶者 | 花川環 |
1893年(明治26年)9月11日[2]、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)[1] に「勝見国一」として生まれた[2]。
新派の俳優・藤沢浅二郎の主宰する「東京俳優養成所」で新派劇を学び[1][3]、その後新劇に転向、伊庭孝の主宰する「新劇社」、あるいは「黒猫社」、島村抱月・松井須磨子の「芸術座」等を転々として新劇俳優として活動した[1]。新劇俳優として、1920年(大正9年)、松竹キネマが松竹蒲田撮影所を開設、その創立に参加した[2][3]。同年、田中欽之監督の『鉱山の秘密』に出演して、映画界にデビューした[2]。蒲田草創期の「男優三羽烏」の一人と呼ばれた[2]。1922年(大正11年)の主演作、島津保次郎監督の『屑七の家』で脚本家としてもデビュー、1925年(大正14年)の主演作、『夜明け前』では監督としてもデビューしている。この頃、同じ松竹蒲田に所属する女優の花川環と結婚する。
1926年(大正15年)、自らの監督主演作『嵐』を最後に蒲田を退社、「勝見庸太郎プロダクション」を設立、京都のマキノ・プロダクションと配給提携を交わし、映画の製作を開始した[2][3]。1930年(昭和5年)には解散した。
1938年(昭和13年)には東京発声映画製作所[2]、1939年(昭和14年)には東宝映画東京撮影所(のちの東宝スタジオ)、のちに松竹大船撮影所の作品にも出演した。
1962年(昭和37年)9月1日夜、肺結核のため、東京都杉並区馬橋(現在の同区阿佐谷南)の清川病院で死去した[1]。満68歳没。
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