光善寺 (枚方市)
大阪府枚方市にある寺院 ウィキペディアから
大阪府枚方市にある寺院 ウィキペディアから
光善寺(こうぜんじ)は、大阪府枚方市出口にある真宗大谷派の寺院[1]。山号は淵埋山。本尊は阿弥陀如来[2]。出口御坊と呼ばれる。
光善寺 | |
---|---|
所在地 | 大阪府枚方市出口2丁目8-13 |
位置 | 北緯34度48分07.12秒 東経135度37分30.00秒 |
山号 | 淵埋山(えんまいざん) |
宗派 | 真宗大谷派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 文明7年(1475年) |
開山 | 蓮如 |
正式名 | 淵埋山 光善寺 |
別称 | 出口御坊 |
文化財 |
光善寺のさいかち(府指定天然記念物) 光善寺(市指定史跡) |
公式サイト | 真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺 |
法人番号 | 5120005012957 |
文明7年(1475年)に吉崎御坊を退去した浄土真宗本願寺派の法主蓮如は、9月5日[3]に河内国茨田郡中振郷出口村(現・枚方市出口)に移り住んだ。当時、出口はわずか9戸の寒村であったが[4]、蓮如はここに出口御坊の建立を進めるとともに3年間在住し、近畿一円の教化を進めた[5]。山号の淵埋山は当時この地にあった二丁四方の大きな池を埋め立てて諸堂を建立したことに由来している。また、その池の一部は現在も残されて庭園となっている[3]。また、池の周囲には梓(はり)の木(サイカチ)がよく茂っていたことから、当寺は梓原堂(しんげんどう)とも呼ばれていたという[3][6]。寺名である光善寺の名は、出口に草庵を建てて蓮如を支えた門弟の御厨石見入道光善から取られたものとされる[2]。御坊の建立に伴って周辺には多くの門徒が移り住み寺内町が形成された[4]。
文明10年(1478年)に蓮如が山城国山科(現・京都市山科区)に新たな本願寺として山科本願寺を建立するため山科に移る際、長男の順如を当寺の住職に指名した[6]。これにより順如は大津の顕証寺(現・本願寺近松別院)から当寺に移り住んで2世住職となった[7][注 1]。また、蓮如は出口御坊を近畿一円の御坊の筆頭格とした[6]。
文明15年(1483年)に順如が早世すると、蓮如は外孫の光淳を次の住職とするなど本願寺派の寺院において当寺は重要な寺であったが、天文3年(1534年)に火災によって焼失。一時、摂津国島下郡鳥飼(現・摂津市)や、河内国茨田郡大場などを転々とした後、慶長年間(1596年 - 1615年)に再び出口に戻って再建された[6][7]。この頃に光善寺の名を賜るとともに院家に補されたという[7]。
6世の顕勝は大坂本願寺が織田信長と戦った石山合戦において功績があり、慶長年間に起きた本願寺分立に際しては准如に従って本願寺派西本願寺の側についた[7]。7世の准勝は恵光寺5世の良超らとともに一旦は真宗大谷派東本願寺に移ったが、間もなく西本願寺に降った[7]。
8世の准玄は本堂を再建し西本願寺の学寮において能化職を務めたが[7][8]、元禄9年(1696年)に10世の寂玄が東本願寺に属して現在に至る[7]。
寛永14年(1637年)に本堂が再建されているが、現在の本堂は天明2年(1782年)8月に再建されたものである[9]。
境内には本堂など江戸時代の建築物が複数現存しており、寺域は2010年(平成22年)4月1日、枚方市の史跡に指定された[10]。
境外の南の町中には、蓮如が当時の村民らに仏法を説いた際に腰かけたと伝わる「蓮如上人腰掛石」がある[6][11]。出口ではこの腰掛石の形にちなんで「出口だんご」が作られ、この地の名物となっている[3]。
当寺から東に約1キロ離れた中振には蓮如上人御廟がある[3]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.