Loading AI tools
日本の海軍軍人。海軍少将、伯爵。ボーイスカウトの日本での創始者。伯爵佐野(常民)家2代 ウィキペディアから
佐野 常羽(さの つねは、1871年8月18日(明治4年7月3日) - 1956年(昭和31年)1月25日)は、日本の海軍軍人。海軍少将、伯爵。日本のボーイスカウトにおける指導者の訓練体系を確立した。日本赤十字社の創始者である佐野常民の子。
海軍兵学校に入学し、1891年(明治24年)、卒業する(18期)。日清戦争では浪速分隊士として従軍。1900年(明治33年)2月、清国南部出張を命じられ、北清事変には和泉分隊長として参戦[1]。1902年(明治35年)12月26日、家督を継いで伯爵となる[2]。
東郷平八郎のもとで砲術長をつとめ、その後、海軍高等通訳官、ドイツ大使館付武官、戦艦榛名の艦長などを歴任する。ドイツ大使館付武官であった頃に、しばしばロンドンに滞在し、本場のボーイスカウト運動を多く見聞する。
退役後の1922年(大正11年)、栃木県佐野に「唐沢義勇少年団」を結成。1924年(大正13年)、第2回世界ジャンボリーに参加(団長は三島通陽)し、その後ボーイスカウト国際会議に日本代表として参加。ギルウェル指導者訓練所(ギルウェル・パーク)に日本人として初めて入所する。1925年(大正14年)、富士山麓山中湖畔大洞にて第1回指導者訓練所開設(のちの山中野営場、中央指導者実修所)を開設し所長に就任。これによって、日本のボーイスカウト運動における指導者の訓練体系が確立された。1929年(昭和4年)、第3回世界ジャンボリー派遣団の団長として大会参加。1931年(昭和6年)に、ロバート・ベーデン・パウエル卿より、ボーイスカウトイギリス連盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈られる(日本人で本章を授与されたのは、昭和天皇と佐野の二人だけである)。
1954年(昭和29年)、ボーイスカウト日本連盟から「長老」の称号を贈られる。1955年(昭和30年)、日本連盟の最高功労章である「きじ章」を贈られる。1956年(昭和31年)、1月25日死去。享年86。
ボーイスカウト日本連盟所属の山中野営場(山梨県南都留郡山中湖村)の玄関には佐野の胸像が置かれている。また、山中野営場には彼の名をとった「佐野広場」があり、記念碑(道心堅固の碑)が建てられている。
妻は保科正益の次女・尚子。養子の佐野常光(つねみつ、1906年生)は一条実輝公爵の次男で旧名・実光[3]。その妻佐野禮子は竹田宮恒久王の第1王女。 養孫には 常行(1935年2月10日生、三女あり[4]) 常武(1942年5月9日生、[4]) 常倶(1946年12月29日生、[4]) がいる。
読みは「いやさか」。ボーイスカウト日本連盟、およびギルウェル指導者訓練所の祝声である。
世界各国のスカウトは自国語の祝声(Cheer、他者を祝賀、賞賛する際や、再会を約して別れる折などに唱和する掛け声のこと。一般に用いられる万歳のようなもの)を持ち、日本連盟は古語である「弥栄」を採用していた。
1924年(大正13年)、ギルウェル指導者訓練所の所長であったJ・S・ウィルソンから、その時入所していた13国の指導者全員に、各国のスカウト祝声を披露するようにとの命令があった。
このとき佐野は、「弥栄」を披露し、「ますます栄える(More Glorious)」という意味であることを説明したところ、ウィルソン所長は、「発声は日本のものが一番よい。そのうえ哲学が入っているのが良い」と賞賛し、以後、ギルウェル訓練所の祝声を「弥栄」とすることに定めた。
佐野常羽の残した教えのひとつに「清規三事」がある。(読みは「しんきさんじ」、「ちんぎさんじ」、「せいきさんじ」など諸説ある。)それぞれの英訳も佐野が行ったものである。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.