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佐渡奉行街道(さどぶぎょうかいどう)は中山道本庄宿と三国街道渋川宿を結ぶ脇街道。三国街道の古道にあたることから古文書では三国道・三国通りと書かれることもあるほか、佐渡街道(さどかいどう)とも呼ばれる[1]。「佐渡奉行街道」の名は佐渡奉行が利用したことに由来する[2][3][1]。
三国街道の古道として、中世には鉢形 - 玉村 - 総社 - 白井を結んでおり、長享2年(1488年)に万里集九は鉢形から角渕、総社を経由して白井に至っている[3][4]。近世に中山道が整備されたことにより本庄宿と渋川宿を結ぶ街道となった。
倉賀野河岸を利用できる三国街道に比べて荷物輸送が少なく街道が衰退したため、寛政12年(1800年)に総社河岸新設を出願したが認められず、三国街道よりも低調だった[5]。総社藩は江戸時代前期に転封となったため参勤交代にはほとんど利用されなかったが、総社藩主だった秋元氏や前橋藩主だった酒井氏が墓参のために通行していることが確認できる[6]。佐渡奉行は江戸から佐渡への往路では佐渡奉行街道を利用したが、佐渡から江戸への復路では北国街道・中山道を利用する場合がほとんどだった[7]。物資の通行は、江戸への年貢米輸送以外では、比較的裏街道を運ばれることの多かった塩の輸送の記録が多い[8]。
『新編武蔵風土記稿』の「金窪村(金久保村)」に、「村内に中山道の往還あり。この道より北に別れる道を、三国街道といい、古中山道で、毘沙吐村の藤木渡しを越え、倉賀野へ出て今の道と合す」[20]、同じく毘沙吐村(現上里町)に「村内に三国街道の往還あり」「烏川。村の北、国界にあり。渡船場あり。三国海道の通る所。」[21]とある。
これとは別に、本庄宿より江戸寄りの「傍示堂村」(現本庄市傍示堂)の記述に、「村の中ほどより佐渡越後及び上野国沼田厩橋辺への脇往来分る」とあり[23]、傍示堂村より沼和田村(現本庄市沼和田)、都島村(同都島)、玉村町を経由する旧三国街道の筋も存在した[24]。
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