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伴 助兼(とも の すけかね)は、平安時代後期の武士。後に資兼に改名。通称は伴次郎、設楽大夫。姓は朝臣[1]。伴助高の子。三河設楽氏・富永氏の祖。位階は従五位下。八幡太郎義家郎党で一の勇士として知られる。
三河伴氏の出自は明らかでなく、景行天皇から出た三河大伴部直の後裔とする皇胤説のほか[2]、中央豪族の伴氏(伴宿禰)の後裔とし、伴善男[3]・大伴駿河麻呂[4]・大伴家持[5]らに繋げる系図がある。
なお、横手市雄物川町沼館から出土した「永延三年(989年)」の銘を持つ胎蔵界中台八葉院鏡蔵には、「『イ兼』杖伴守光」や「伴希子」という名前が見える[6]。
三河国に住んだとされる。伝承では治暦元年(1065年)に義家の命で、現在の福島県二本松市に住吉山城(四本松城)を築いたという。
永保3年(1083年)に始まる後三年の役では、舅の兵藤正経と共に、清原(藤原)清衡の襲撃を受けた清原真衡邸から、真衡の妻と成衝を救い出している。義家からその武勇を賞賛され、源氏八領の一つともいわれる薄金の鎧を拝領したが、金沢柵攻略戦では、城内からの落石で兜を打ち落とされ紛失した。豊田市猿投神社に伝来する樫鳥縅鎧(重文)は、この薄金の鎧を助兼が奉納したものであると伝えられている。
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