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鎌倉時代から南北朝時代の公卿・二条派の歌人。勅撰和歌集「新拾遺和歌集」の撰者。 ウィキペディアから
二条 為明(にじょう ためあき)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿・二条派の歌人。勅撰和歌集「新拾遺和歌集」の撰者。
永仁3年(1295年)に、父・二条為藤(歌道家・二条家の嫡流・二条為世の二男)、母・吉田経長娘の一男として生まれる[1][8]。 正和4年(1315年)に歌会「花十首寄書」に参加し、うち2首が勅撰集に入集した(この時の詠歌が現存する最古のもの)[6][9]。 元徳2年(1330年)、『太平記』「巻2 僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事」によると、「鎌倉幕府方は後醍醐天皇の討幕の企てを察知し、討幕調伏を行ったとされる僧徒らとともに為明を捕縛した。幕府方は為明を拷問にかけ白状させることを企図するが、為明は白状する代わりに詠歌を行った。幕府方はその歌に感嘆し、為明を放免した。」とされる[10]。 元弘元年/元徳3年(1331年)、元弘の変で後醍醐天皇らとともに捕縛され、翌元弘2年/元徳4年(1331年)の尊良親王の土佐への配流に侍従[10]、元弘3年(1333年)鎌倉幕府が滅亡すると尊良親王とともに帰京した[11]。 延元元年/建武3年(1336年)に建武の乱の敗北で後醍醐天皇は吉野に逃れるが、為明ほか二条家の歌人は京に残留した[12]。 観応の擾乱により南朝の勢力が盛り返すと、正平6年/観応2年(1351年)頃には南朝に再び接近するが[13]、正平10年/文和4年(1355年)頃までに帰京した[14]。 正平11年/延文元年(1356年)には北朝の後光厳天皇が撰集を下名した勅撰和歌集(新千載和歌集)の連署に列した[14]。天平17年/康安2年(1362年)には後光厳天皇に古今伝授を行う[5]。天平18年/貞治2年(1363年)には足利義詮の執奏により後光厳天皇より勅撰和歌集の撰集が下名された(新拾遺和歌集)[2]。天平19年/貞治3年(1364年)4月に「新拾遺和歌集」四季部6巻を奏覧[3]。その後も編纂を続ける予定であったが、同年10月に死去、享年70歳[3][8]。
岐阜聖徳学園大学教授の安田徳子は、二条家非嫡流の微妙な立場や南北朝の動乱を乗り越えて最晩年には撰者として勅撰和歌集の撰集も一応全うした為明の生涯を、「動乱期を生き抜いた歌人の忍耐強く図太い有り様を如実に示した」と評している[3]。
為明筆(含む「伝」)の写本類が現代まで伝えられており、伝為明筆「手鑑『藻塩草』続古今和歌集巻第十断簡(朝倉切)」1帖が国宝に[15]、為明筆「古今和歌集」1帖及び伝為明筆「狹衣」4帖が重要文化財に指定されている[16][17]。
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