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メアリー・ジョー・フェルナンデス(Mary Joe Fernández, 1971年8月19日 - )は、アメリカの女子プロテニス選手。出身地はドミニカ共和国のサントドミンゴで、父親はスペイン出身、母親はキューバ人である。4大大会で3度のシングルス準優勝を記録し、全豪オープンで1990年と1992年の2度、全仏オープンで1993年に準優勝した。ダブルスの名手としても活躍し、4大大会では1991年全豪オープンと1996年全仏オープンで優勝している。1992年バルセロナ五輪と1996年アトランタ五輪の2大会連続で、アメリカ代表として女子ダブルスの金メダルを獲得した。WTAツアーでシングルス7勝、ダブルス17勝を挙げる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス4位。
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メアリー・ジョー・フェルナンデス | ||||||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||||||||||||||
出身地 | ドミニカ共和国サントドミンゴ | |||||||||||||||
居住地 | アメリカ・フロリダ州マイアミ | |||||||||||||||
生年月日 | 1971年8月19日(53歳) | |||||||||||||||
身長 | 176cm | |||||||||||||||
体重 | 63kg | |||||||||||||||
利き手 | 右 | |||||||||||||||
バックハンド | 両手打ち | |||||||||||||||
ツアー経歴 | ||||||||||||||||
デビュー年 | 1985年 | |||||||||||||||
引退年 | 2000年 | |||||||||||||||
ツアー通算 | 24勝 | |||||||||||||||
シングルス | 7勝 | |||||||||||||||
ダブルス | 17勝 | |||||||||||||||
生涯通算成績 | 781勝344敗 | |||||||||||||||
シングルス | 437勝203敗 | |||||||||||||||
ダブルス | 344勝141敗 | |||||||||||||||
生涯獲得賞金 | $5,258,471 | |||||||||||||||
4大大会最高成績・シングルス | ||||||||||||||||
全豪 | 準優勝(1990・92) | |||||||||||||||
全仏 | 準優勝(1993) | |||||||||||||||
全英 | ベスト4(1991) | |||||||||||||||
全米 | ベスト4(1990・92) | |||||||||||||||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||||||||||||||
全豪 | 優勝(1991) | |||||||||||||||
全仏 | 優勝(1996) | |||||||||||||||
全英 | ベスト4(1991・93) | |||||||||||||||
全米 | 準優勝(1989) | |||||||||||||||
優勝回数 | 2(豪1・仏1) | |||||||||||||||
国別対抗戦最高成績 | ||||||||||||||||
BJK杯 | 優勝(1996) | |||||||||||||||
キャリア自己最高ランキング | ||||||||||||||||
シングルス | 4位(1990年10月22日) | |||||||||||||||
ダブルス | 4位(1991年2月18日) | |||||||||||||||
獲得メダル | ||||||||||||||||
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1985年の全米オープンで、史上最年少の「14歳8日」で初戦を突破する。1986年にプロ転向し、全仏オープンで準々決勝に進出。ジュニア時代からガブリエラ・サバティーニに相性が良く、プロ選手生活でも「10勝13敗」の戦績を挙げた。“サバティーニ・キラー”と呼ばれたフェルナンデスだったが、シュテフィ・グラフには17度の対戦で1度も勝てなかった。1990年の全豪オープンで、フェルナンデスは女子シングルス・女子ダブルスの2部門に決勝進出を決めたが、シングルス決勝ではグラフに 3-6, 4-6 で敗れて準優勝になり、パティ・フェンディックと組んだ女子ダブルスでも準優勝に終わった。翌1991年の全豪女子ダブルスで、フェンディックと組んで初優勝を果たす。1992年全豪オープンで、フェルナンデスは再び女子シングルス・女子ダブルスの2部門で決勝に進んだが、2年ぶり2度目の女子シングルス決勝でモニカ・セレシュに 2-6, 3-6 で敗れ、またもや優勝を逃した。ダブルス準優勝のパートナーはジーナ・ガリソンであった。この後、バルセロナ五輪の女子ダブルスでジジ・フェルナンデスとペアを組んで金メダルを獲得した。
全豪オープン女子シングルスで最初の準優勝になった1990年、フェルナンデスは東京・有明コロシアムで新設された「ニチレイ・レディース」の第1回大会で単複2冠を獲得した。シングルスでは、これが彼女のプロ初優勝だった。ニチレイ・レディースのダブルスでは、1990年-1992年の3連覇の後、1995年にも優勝がある。
1993年の全仏オープンは、フェルナンデスのテニス人生でも最大のハイライトだった。準々決勝でガブリエラ・サバティーニと対戦中、1-6, 1-5 に追い詰められたが、そこから挽回して第2セット 6-6 に追いつき、タイブレークを取って持ち込んだ第3セットを 10-8 で取る大逆転勝利を挙げたのである。そして自身3度目の4大大会決勝進出を果たしたが、シュテフィ・グラフに 6-4, 2-6, 4-6 の逆転で敗れてしまう。これでフェルナンデスは4大大会で3度の準優勝になり、シングルスのタイトルを獲得することはできなかった。
1996年アトランタ五輪の女子ダブルスで、前回と同じジジ・フェルナンデスとのペアで2大会連続の金メダルを獲得した。この年は全仏オープンのダブルスでも優勝し、1991年全豪オープン以来となる4大大会ダブルス2勝目を挙げた。五輪をジジ・フェルナンデスと組んだほかは、リンゼイ・ダベンポートとペアを組んで好成績を挙げ、1996年にフェルナンデスとダベンポートのコンビは年間4勝を記録している。1997年がシングルス、ダブルスとも最後の優勝になった。キャリア後期の活躍には、1999年全仏オープン3回戦で若きセリーナ・ウィリアムズを破った試合があった(故障で次の4回戦を断念している)。
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