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本稿においては、ミャンマー内戦(ミャンマーないせん、ビルマ語: မြန်မာ့ပြည်တွင်းစစ်)の、2021年ミャンマークーデター以降の状況について説明する。同内戦は、クーデターに応じて発生した2021年ミャンマークーデター抗議デモと、その取り締まりを受けて、著しく激化した。春の革命(英語: Spring Revolution、ビルマ語: မြန်မာ့နွေဦးတော်လှန်ရေး)[9]、自衛のための戦争(英語: People's defensive War、ビルマ語: ပြည်သူ့ခုခံတော်လှန်စစ်)などとも呼称する[10]。民主派亡命政権である国民統一政府(英語: National Unity Government of Myanmar、NUG)と、NUGに連帯する少数民族系武装勢力は、2008年制定のミャンマー連邦共和国憲法を拒絶し、フェデラル民主制にもとづく国家の建設を要求している[11]。武装勢力にはNUGと無関係なものも存在し、クーデターを通じて政権を握った国家行政評議会(英語: State Administration Council、SAC)は、この両者と戦闘している[12]。『ニューヨーク・タイムズ』のハンナ・ビーチによれば、ミャンマー国内には数百の武装勢力が存在する[11]。
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国際連合によれば、2021年2月から2023年3月までに、55万戸が破壊され、160万人が住む場所を逐われて、国内の述べ1760万人が人道支援の必要な状況に陥っている[13]。国際連合人道問題調整事務所(UNOCHA)によれば、4万人がミャンマーを逃れ、バングラデシュ・インド・タイといった近隣諸国に逃れている[14]。
2023年10月時点で、ミャンマー軍は330ある郡区のうち3分の2を支配下においていると主張しているものの、国土全体の40%にとどまるとする主張もある[15][16]。
ミャンマーにおいては、1948年以来、おもに民族的基盤にもとづく内戦が続いている。ビルマ共産党の反乱とカレン人の反乱がその嚆矢であった[17][18]。20世紀中にはいくつかの少数民族武装勢力(英語: Ethnic Armed Organizations、EAOs)が台頭し、その影響力・支配力について栄枯盛衰を繰り返した。ネウィンによる1962年ビルマクーデターと、その後の政治的圧力の強化に応じて、カチン独立軍(英語: Kachin Independence Army、KIA)のような有力なEAOsが設立された[19]。ネウィン政権による一党独裁に対抗するかたちで、1988年には8888民主化運動が発生した。これに参加した運動家がEAOsの支配地域に逃れたことを契機として、ビルマ人を主体とする民兵勢力も誕生した[20]。
8888民主化運動の煽りをうけて、国家法秩序回復評議会(英語: State Law and Order Restoration Council、SLORC)、のちの国家平和発展評議会(英語: State Peace and Development Council、SPDC)が成立する。軍事政権は、1990年代にほとんどのEAOsの基地および拠点を破壊し、これらの組織を著しく弱体化させることに成功した[21]。2011年 - 2015年ミャンマー政治改革までに、ミャンマー軍はコーカンおよびカレン州をはじめとする、長年にわたってEAOsに支配されていた地域を奪還している[22][23]。
2011年にミャンマーは民政移管をおこない、1962年以来続いた軍事政権の支配は終わりを告げた[24][25]。国軍系の政党である連邦団結発展党(英語: Union Solidarity and Development Party、USDP)所属の新大統領であるテインセインは、就任後EAOsに向けて全国的な停戦をよびかけた[26]。2015年ミャンマー総選挙を目前に控える2015年10月15日、8のEAOsとのあいだで全国停戦合意が締結された[27]。しかし、同選挙においてはアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が大勝し、スーチーは国家顧問として政権を握った[28]。
同政権下でも全国停戦合意の枠組みは引き続き利用されたものの、交渉は停滞した[29]。同合意に参加しなかった、多くのEAOsは紛争を継続した。2016年後半、KIAやアラカン軍(AA)といった合意非締結勢力が北部同盟を結成し、中央政府や他のEAOsと交戦した[30]。EAOsの伸張や、新型コロナウイルスの流行対策の不十分さなどについて、軍はNLD政権に不信感をつのらせた[31]。こうした状況下で開かれた2020年ミャンマー総選挙においてもNLDは再び大勝し、USDPは惨敗した。軍部はこの結果に対して不満を持ち、投票に不正があったとして選挙管理委員会の交替や、票の再集計を主張した[31][32]。
2021年2月1日、ミャンマー軍はクーデターを通じて政府を転覆させ、ウィンミン大統領およびアウンサンスーチー国家顧問を筆頭に、政権与党であったNLD構成員は勾留された。軍部は翌2日に国家行政評議会(英語: State Administration Council、SAC)を組織し、国軍最高司令官のミンアウンフラインが国家行政評議会議長として政権を奪取した[32][33]。軍事政権のクーデターに多くのミャンマー国民は納得せず、市民の間では大規模な抗議活動がおこなわれるようになった(2021年ミャンマークーデター抗議デモ)。デモは非暴力的な手段に訴えていたにもかかわらず、軍部はこれを暴力的な手段をもって封殺した[34]。たとえば、3月14日には、ヤンゴン近郊のラインタヤ郡区では、平和的な抗議活動をおこなっていた市民を警察と軍が包囲し、少なくとも65人を殺害した(ラインタヤの虐殺)[35]。
軍部はアウンサンスーチーを拘束すれば支持者による抵抗は十分に抑え込めると考え、幹部以外のNLD議員が宿泊する議員宿舎の包囲を2月4日に解いた[36]。議員らは2月5日に連邦議会代表委員会(CRPH)を結成し、3月31日に現行憲法の無効化と「フェデラル民主主義憲章」を宣言した。フェデラル(ビルマ語: ဖက်ဒရယ်; 英語: Federal)は、EAOsが好んで用いた言葉であり、独立以来ミャンマーの国号として用いられた連邦(ビルマ語: ပြည်ထောင်စု; 英語: Union)制度が、実際には中央集権制的なものであったことを批判するニュアンスがある。こうした方針で少数民族武装組織に目配せをしながら、彼らは4月16日に公式に国民統一政府(英語: National Unity Government of Myanmar; NUG)の設立を宣言した[34]。
クーデター勃発から1ヶ月ほど経った3月頃から、軍事政権に対する抗議活動は暴力的なものへと変化していた[34]。たとえば、ザガイン地方域カレーでは、市民による非暴力的抵抗が軍により暴力的に鎮圧されたことを契機として、3月28日には軍と、火炎瓶やライフルで武装した市民との間に激しい武力衝突が発生した(カレー衝突)[37]。また、チン州では4月26日、クーデターを受けて成立したチンランド防衛隊(CDF)と、軍部が衝突するミンダッの戦いがおきた[38]。このように、2021年以後のミャンマーにおいては、ザガイン地方域やチン州のような、それまで内戦とは縁遠かった地域においても戦闘が相次ぐようになった[34]。こうした潮流につきうごかされるかたちでNUGも非暴力路線を転換し、5月5日には武装蜂起した抗議者をまとめあげるための組織として、国民防衛隊(PDF)の発足を宣言した[34]。また、カレン民族同盟(KNU)やカチン独立機構(KIO)といった以前より政府と衝突していた反政府組織も抗議運動を支援し、武力闘争を決断した抗議者の訓練および武器入手を手助けした[39]。
5月から9月にかけては紛争による死者数は比較的落ち着くも、依然として武力衝突は続いた[40]。こうした状況下の9月7日、NUGにより国土全体を対象とする緊急事態宣言発令と、SACに対する「自衛のための戦争」の宣言がおこなわれた[41][42]。これを契機として、ミャンマー全土でPDF・EAOsとSACの間での戦闘が激化した[43]。SACはこうした状況に対して徹底抗戦をとなえた。ミンアウンフラインは2022年3月27日、NUGとその連帯勢力に対しては交渉の余地はなく、「最後の一人まで殲滅する」と演説をおこなった[44]。
KIAやワ州連合軍(UWSA)といった勢力はこの間に版図を広げ、ミャンマー国土の40%から50%がSAC以外の勢力による支配下に入った[45]。AAもこの時期、2020年末より続いていた国軍と非公式の停戦協定を破棄した[46]。6月、国軍はカレン州のAA基地を空爆し、戦闘員6人を殺害した。AAはこの報復として、6月から8月にかけてラカイン州マウンドー郡区およびチン州西部の国軍基地を攻撃した[47]。4ヶ月の戦闘ののち、11月には再び停戦協定が締結された[48]。また、10月21日にはカレン民族解放軍(KNLA)によりコーカレイへの侵攻がおこなわれた(コーカレイの戦い)[49][50]。
こうした状況下、民兵の寄せ集めとしての性質が強かったPDFの組織化も少しずつ進んでいった。NUGはクラウドファンディングなどを利用して資金を調達し、戦闘能力の向上にともない、前年には毎回数分程度で終わっていた国軍との戦闘も数時間以上続くようになった[48]。2023年9月のインタビューにおいて、NUGの副大統領であるドゥワラシラーは現状において抵抗勢力がミャンマー国土の60%を制圧しているとコメントした[51]。
2023年10月27日には、AA・ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)・タアン民族解放軍(TNLA)から構成される三兄弟同盟が1027作戦を実行した[52]。同作戦により、3日間で57のミャンマー軍基地が制圧された[53]。11月6日には、PDFにより、ザガイン地方域のコーリンが陥落した。県(District)レベルの都市が抵抗勢力の支配下に入るのははじめてのことだった[54]。同作戦は、2021年以降のミャンマー軍が経験した最大の敗北であったと報じられている[55][56]。ミャンマー軍が三兄弟同盟と停戦合意を結んだ際には、国軍派のインフルエンサー・僧侶たちの間から、ミンアウンフラインの辞任を求める声が相次いだ[57]。
AAは軍事政権との停戦協定を破棄し[58]、ラカイン州およびチン州南部のパレッワ郡区においても作戦を開始した(ラカイン攻勢 (2023年-))[59]。これにより、ラカイン州都シットウェ近郊のパウッタウの基地の大部分が、12月6日までに占領された[60][61]。パウッタウは2024年1月25日に陥落した。また、それまでにラカイン州およびチン州において、ミャンマー軍の基地160以上が制圧された[62]。さらにAAは2024年2月8日、かつてアラカン王国の首都であった古都・ムラウウーを制圧した[63]。また、MNDAAはコーカン自治区首都のラウカイを攻撃し(ラウカイの戦い)、2024年1月5日までに完全に支配下に置いた[64]。
2024年1月11日、軍事政権と三兄弟同盟は中国政府の仲介のもと昆明で会談をおこない、シャン州北部における停戦協定に合意した(海埂協定)[65][66]。同協定はシャン州のみに限定されるものであったが[65]、同地域においてすら依然として戦闘は続いた[67]。また、軍は2月10日、コーリンを奪還した[68]。
1027作戦に連動して、他のEAOsも作戦を開始した。カヤー州のメセ郡区では、カレンニー民族人民解放戦線(KNPLF)・カレンニー軍(KA)・カレンニー諸民族防衛隊(KNDF)の合同作戦である1107作戦が展開された[69][70]。また、その4日後には、カヤー州都であるロイコーをめぐり、1111作戦が展開された[71]。ほかに、マンダレー地方域のマダヤ郡区においては、TNLAとPDFによるタウンタマン作戦が開始された[72][73][74]。チン州では2023年11月13日、CDFによりインド・ミャンマー国境の都市であるリコーダルが制圧された[75]。チン州の抵抗勢力が都市を占領するのは、クーデター以後でははじめてのことだった[76]。12月6日には、チン民族戦線(CNF)らによりチンランド憲法の批准がおこなわれ、チンランド政府の成立が宣言された[77]。評議会は6月、AAに対してチンランド領内での軍事活動および地域の支配を自粛するよう声明を発表した[78]。
KIAは2024年3月7日、0307作戦を開始し、カチン州東部の10基地を一斉攻撃した[79]。3月22日までに、KIAは50以上の前哨基地と13の戦略的に重要な基地を制圧したと発表した[80]。また、3月6日には軍傘下のカレン州国境警備隊がカレン民族軍(KNA)としての独立を発表した[81]。KNLAは4月5日に同州パプンを制圧し[82]、4月20日には続いてミャワディを占領した(ミャワディ包囲戦)[83]。しかし、KNAが国軍側についたことによりKNLAは4月24日、ミャワディから撤退した[84][85]。国軍はKNAからミャワディを奪還すべく、コンバウン王朝の始祖アラウンパヤ王の別名を冠した「アウンゼヤ作戦」を発動したが、ミャワディに向かう途中、カレン族やその他の抵抗軍の攻撃を受け、ドーナ山脈で数ヶ月足止めされた挙句、撤退した[86]。
軍部からの度重なる攻撃を受け、TNLAは6月25日に停戦の終了を宣言した。これをもって海埂協定は破棄され、1027作戦の第2波がはじまった[87][88][89]。TNLAとマンダレーPDFは7月25日にマンダレー管区のモーゴッを制圧した[90]。さらに、MNDAAは8月3日にシャン州のラーショーを制圧した。これにより、同地に拠点を置く、ミャンマー軍北東軍管区司令部が占拠された[91]。同地に拠点を置く国軍北東軍管区司令部を占拠した。国軍の地方司令部が反乱軍に占拠されたのは史上初のことだった[92]。その後、MNDAAはラーショーをコーカン自治区に編入すると発表した[93]。
2024年9月4日、MNDAAは(1)MNDAAは独立国家を追求するのではなく、自治区を維持する意向である(2)MNDAAはNUGとのいかなる連携も否定し、マンダレー、タウンジーへの攻撃を行わない(3)中国政府の和平イニシアティブに従い、政治的手段で問題を解決するという内容の声明を発表した。件の声明は即日削除されたが、その後、19日に再発表した[94]。これに対してNUGも同日、9つの組織と連名で軍政を打倒した後、連邦民主連合国家を樹立する決意を再確認する共同宣言に発表した[95]。
この劣勢に対して国軍は、既述の「アウンゼヤ作戦」以外にも、三兄弟同盟に奪われたシャン州北部の失地回復を図る「シンピューシン作戦」とシャン州とカレンニー州の失地回復を図る「ヤンナインミン作戦」を発動し、各地で空爆を開始した[86][96]。
この頃から、中緬国境地帯の安全と利権確保、NUG・PDFとアメリカ政府の密接な関係を疑う中国は、軍政支持の旗幟を鮮明にし始めた[97]。8月14日、中国の王毅外相がミンアウンフラインと会談、2025年に予定されている総選挙の実施や和平実現などのへの支持を表明した[98]。またワ州連合軍(UWSA)に対しては、MNDAAやカレンニー州の諸勢力、PDFに兵器を供給しないように要請し、コーカン自治区に供給していた電気、水、食料、医薬品、ネットを遮断していると伝えられている[99]。10月22には中緬国境のゲートがすべて閉鎖された[100]。11月5日、ミンアウンフラインは大メコン圏(GMS)首脳会議に出席するため中国の昆明を訪問し、翌6日、中国の李強首相と会談して両国の関係強化を強調した[101]。両国のこうした一連の動きに対しては、反政府勢力を動揺させ、その士気を削ぐという声が上がっている[102][103]。
クーデター直後から軍事政権は、Facebook、X(当時はTwitter)、InstagramなどのSNSを中心にインターネットを遮断して、反政府的な言説が拡散しないようにしたり、反政府勢力の通信手段を妨害していた[104][105][106](ミャンマーではインターネット=Facebookと言っていいほど、情報交換、娯楽、恋愛、学習、就職活動、政府広報などにFacebookが幅広く利用されている)。クーデターの翌週には、ネット遮断を回避するVPNの使用禁止を主な目的とするサイバーセキュリティ法を準備していると伝えられ、2022年1月には草案が発表された[107](正式に制定されたかどうかは不明)。クーデターの1ヶ月前には、政府系通信郵便会社がイスラエル企業から、携帯端末の位置特定、会話の盗聴、携帯端末へのハッキング、テキストや暗号化されたメッセージの抽出が可能なスパイウェア・システムを購入していたのだという[108]。
インターネット規制の効果はあり、反政府勢力は通信や資金調達に難渋するようになり[109]、ゆえに紛争地帯ではスターリンクが利用されているのだという[110]。ただミャンマーの一般ネットユーザーは、VPNを経由して比較的自由にインターネットを利用しており、比較的簡単に当局の規制をかいくぐれるということで、これまで利用者が少なかったロシア製SNS・Telegramの利用者も急増した[111](ただし国軍派の人々も反政府勢力プロパガンダにTelegramを利用しているのだという[112])。
しかし、2024年5月30日、突然、これまでにないほどインターネットの速度が遅くなり、FacebookやXなどのSNSが、VPNを経由しても使用できなくなった[113]。2週間ほどでFacebookユーザーが半減したのだという[114]。中国製のグレイト・ファイアウォールを導入したと言われており、軍事政権は、MyspaceというFacebookに酷似したSNSを提供し始めたが、安全性の問題から、国民の間には普及していない[115]。
2022年8月頃から、銀行口座開設をする際に、プロバイダに顔写真、ビデオ、身分証明書のコピー、携帯電話番号、SIMカード番号を提出しなければならなくなり、さらに500万ks以上の携帯取引を可能とする口座を維持・開設する場合は、地元の行政官と警察から書面による推薦を受けなければならないという規制が敷かれた。これにより反政府は資産管理に四苦八苦するようになり、資産が差し押さえられるケースも出てきた[116]。またインターネット規制が強化されたとほぼ同時期、2024年5月、軍事政権は、人々の指紋、顔、虹彩の生体認証データを収集して、新しい国民IDカードを作成中であり、パスポート取得、国境通過、医療教育サービスの利用、SIMカードの登録、銀行口座の開設、運転免許証や労働身分証明書の発行などに利用される予定という報道があった[117]。
2021年のクーデター以降、ミャンマー各地で中国製CCTV(監視カメラ)が、急速な勢いで設置・増設されている[118][119][120][121][122]。ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア担当副局長フィル・ロバートソンは、「監視カメラは民主化活動家にとって重大なリスクとなる。軍や警察は監視カメラを使って活動家の動きを追跡し、活動家同士のつながりを解明し、隠れ家や集合場所を特定し、活動家が使用する車やバイクを認識して阻止することができるからだ」と述べている[123]。
以上のようなプライバシー規制によって、軍事政権は反政府勢力のブラックリストをデータベース化しており[124]、CDMに参加した人々が海外の大学に留学しようとすると、先に手を回して大学に奨学金の取り消しを求めたり、民間企業に再就職できなかったり、 旅券事務所や空港で逮捕されるケースが多発している[125][126]。また都市部における反政府勢力によるものと思われる爆弾テロや銃撃事件も激減している[127]。
2024年2月10日、国家行政評議会(SAC)は国家徴兵法を発効した[128]。国内の若者1,400万人が徴兵対象者となり、これは同国の人口5400万人の26%に匹敵する[129]。同法の内容は以下の通りである[130]。
徴兵制は1959年にネウィン軍事政権下で制定されており、2008年憲法第386条にも「すべての国民は、法の規定に従い、軍事訓練を受け、軍務に服する義務がある」とあるように制度としては存在した[131]。2010年11月にタンシュエ軍事政権下で改正されたが、これまで1度も実施されたことはなかった。しかし長引く内戦、1027作戦の敗北を経て深刻な兵力不足に陥り[132]、退役軍人、脱走兵、無断欠勤の兵士を呼び戻し、民兵も駆り出していたが、それでも足りず、実施に踏み切ったとされる[130]。また、ほぼ同時期に1027作戦に参加したミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)も徴兵制を実施している[133][134]。このほかに、2024年8月現在[update]国軍と連携しつつも、シャン州の他の武装勢力が強大化していることを警戒したシャン州軍 (南)(SSA-S)も徴兵制を実施・強化している[135]。
当初は、4月下旬頃から徴兵が始まり、1回5000人、6ヶ月の軍事訓練を受けるというもので、年間6万人が徴兵の対象となると発表された。また実施直後、世論の不評を鑑みたか、女性の徴兵は当面見送られるとも発表された[136]。
徴兵は抽選で行われるとされたが、徴兵逃れの賄賂が横行するなど到底公正とは言えず[137][138]主に貧困層の若者が徴兵されているのだという[139]。また国軍が自宅、検問所、喫茶店やバーで若者を連れ去ったり、逃亡した若者の親を脅迫したりして強制的に徴兵しているとも伝えられている[139]。しかも軍事訓練は3ヶ月に短縮され[140]、訓練を終えると、ラーショー、ロイコー[141]、ラカイン州、ザガイン地方域、カレン州[142]などの最前線に送られ、7月には最初の徴集兵の戦死者が報道された[143]。また見送るとされた女性の徴兵も、エーヤワディ地方域、バゴー地方域[144]、タニンダーリ地方域[145]などの一部地域で実施されているという報道もされた[146](ただし女性は前線に送られる可能性は低く、補助的・事務的な作業に従事するのだという)[147]。
9月、政府は、35歳より上の民間人の男性に兵器を与え、都市の治安を守るための民兵組織を結成すると発表した[148]。
徴兵制が実施されると、対象となる若者たちの海外逃亡、特に隣国・タイへの逃亡が相次いだ[149][150]。世界銀行のレポートによれば、出稼ぎによる従業員の退職を報告する企業の割合は、2023年9月の17%、2023年4月の11%から2024年4月には28%に増加している[151]。しかしその大半は就労可能なビザを所有しておらず[152]、不法滞在者として低賃金の違法労働に従事することを余儀なくされた[153]。中にはタイ当局に摘発される者もおり、8月までに約11万人のミャンマー人の不法滞在者がタイ当局に逮捕された[154]。また国軍に徴兵されるよりは良いとして、PDFやカレン民族軍への入隊を希望する者も増加した[155][156]。さらに若者の海外逃亡により、一部地域では国内の労働者不足が深刻化し、児童労働で賄われているという実態も明らかになっている[157][158]。5月1日、国家行政評議会(SAC)は、若者の海外逃亡を防ぐため、男性の海外就労を禁止した[159]。当初は一時的とされたが、2024年8月現在[update]でも23歳~30歳の男性の海外就労は禁止されている[160]。
徴集兵に対して、NUGは投降を促しているが、マンダレーPDFなどは「通常どおり戦闘を行う」としており[161]、同じ民族同士の激突も予想され[162]、人種、宗教、州・地域間の緊張が高まることが懸念される[163]。
クーデター以降、ミャンマー経済は低迷を続けている。Covid-19のパンデミックと政治の混乱により2021年の経済成長率はマイナス17.9%まで縮小[164]。その後も低い水準で推移し、世界銀行やアジア開発銀行(ADB)の予測では、これ以上紛争が激化しないと仮定しても、2024年3月期の経済成長率はわずか1%に留まる見込み[165][166]。当面回復の見込みはなく、L字型不況の様相を呈している。
政治の混乱による通貨の信用低下と経済制裁などにより、ミャンマーの通貨チャットの下落も進んでいる。2021年2月1日には1$=1330ksだったものが、2024年9月現在1$=5000ksくらいにまで下落している、一時は1$=7000ksにまで下落した[167]。公式レートは1$=2100ksに固定されているので、実勢レートとの乖離が大きくなっている。
チャットの下落、通貨供給量の増加、世界的な物価上昇により、急激なインフレを引き起こしている。 アジア開発銀行(ADB)の推計によると、2022年のインフレ率は18.4%、2023年は14.0%、2024年は8.2%だった[168]。軍政も最低賃金を引き上げる[169]などして対応しているが、物価上昇には追いつかず、国民生活は苦しくなっている。
外国直接投資(FDI)も激減しており、2017年には50億$、2020年には22億$あったものが、2021年には20億$に達せず、2023年も22億$に留まった[170]。
人口の76%が自給自足以下かそれに近い生活をしており、貧困率は2017年の24.8%から2023年には49.7%へとほぼ倍増、中間層の崩壊が叫ばれている。貧困であった人々がさらに貧困に追い込まれ、その結果、困窮生活から抜け出すチャンスが減少しており、特に子供の半数が国の貧困ライン以下で生活している。ヤンゴンやマンダレーのような都市部でも貧困化が進んでいるが、地域別に見ると、2023年の貧困率は、チン州が73.4%、ラカイン州が66.9%、カチン州が63.8%、ザガイン地方域が60.3%と、やはり地方のほうが大きい[171]。貧困化にともない、臓器売買[172]、売春[173]や児童労働[174]の増加が報告されている。また仕事を求めて、タイや中国などの近隣諸国、日本、韓国、シンガポールなどの先進国に人材が大量に流出しており、国内の人材枯渇と生産力低下が危惧されている[175]。
Covid-19のパンデミックにより、ミャンマーの学校は2020年3月にすべて閉鎖されていたが、クーデターが起きると、教師たちが職場を放棄する市民不服従運動(CDM)が巻き起こった。2023年10月の時点で約13万人の教師が職場に復帰しておらず[176]、これに呼応して生徒たちの多くが学校に通わないという事態が起こった。これに対して軍政は教師を補充するなどして対策を取り[177]、2021年6月には学校を再開させたが、CDM以外にも貧困と治安悪化を理由に、2023年の時点で6~17歳の28%が学校に通っておらず、生徒の10分の1が学校を中退しているのだという[178]。また教師の人手不足は教師のモラル低下を招いており、生徒に賄賂を要求する教師もいて、払わなければ罵倒され、体罰を受け、成績を下げられ、学校が嫌になってますます中退者が増える負の連鎖に陥っている面もあるのだという[179]。大学教育においては、2023年1月の時点で校で第1学年から博士課程までの登録者22万713人のうち、実際に授業の受講登録した学生は10万9486人と49.6%に留まっている[180]。ミャンマー経済の専門家・工藤年博は「このままでは教育・訓練を受けなかった若者世代が誕生してしまう」とミャンマーの将来を危惧している[181]。
CDMは医療従事者の間にも広がり、2023年の時点で医療従事者11万人のうち4万人がCDMに参加しているのだという[182]。軍政は医学部への入学基準を引き下げ、それでも足りず他学部からの編入も認めたが、医師のレベル低下が懸念されている[183]。人手不足の公立病院に見切りをつけ、高額な私立病院を訪れる患者も急増しているが、私立病院も同じくスタッフ不足に悩まされており、意欲的な企業家が私立病院経営に乗り出そうとするも、許認可権を持つ保健省のスタッフも不足しており、遅々として進んでいない[184]。病院では汚職が横行し、以前は貧困層は医療費は無料だったが、現在は入院時に寄付を求められ、スタッフの携帯代やおやつ代まで請求されることがあるのだという。紛争地帯や農村部では偽医者や呪い師も跋扈し、状況をさらに悪化させており、頼みのボランティアも医薬品の高騰に悩み、さらに新NGO登録法によりその大部分が消滅してしまった。[182]
2007年ミャンマー反政府デモ(サフラン革命)の時はデモの先頭に立った僧侶たちだったが、2021年のクーデターに対する反応は鈍く、明白にNUGなどの抵抗勢力側に立った僧侶はわずかだった。その理由は、Covid-19のパンデミックにより都市部を離れ、農村部の僧院に散らばっていたこと、スーチーとNLDのリベラルな姿勢が仏教を軽視しているように見えたこと、NUGがカレン民族同盟(KNU)、カレンニー民族進歩党(KNPP)、チン民族戦線(CNF)、カチン独立軍(KIA)などのキリスト教徒の少数民族武装勢力と連携していることが挙げられる。また抵抗勢力側も仏教を古臭い価値観と捉える向きが多く、その非暴力的志向がメンバーに悪影響を与えると考え、僧侶と連携する動きはあまり見られなかった[185]。しかしこのような僧侶たちのクーデターに沈黙する態度や一部の高僧が国軍幹部と親しくする態度は、仏教徒が90%を占めると言われるミャンマーの人々の間に、仏教・僧侶に対する不信感を芽生えさせ、SNSには「クーデター後、ミャンマーの上座部仏教が、信仰に値するものかどうかが疑問視されるようになった」「この大災害を前にして、僧侶たちの指導的役割が発揮されているかどうか、疑問が残る」「今日の上座部仏教僧たちの振る舞いは、自分たちが頼っている社会に対して無責任であるようにみえる」[186]「妄信するのはやめよう」「批判しても、地獄に落ちることなどない」[187]などといった、以前はタブーであった仏教・僧侶を批判する投稿が目立つようになったのだという。
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