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ミャンマー内戦(ミャンマーないせん、ビルマ語: မြန်မာနိုင်ငံပြည်တွင်းပဋိပက္ခများ)もしくはビルマ内戦は、ミャンマー(ビルマ)国内における、継続中の内戦である。1948年のビルマ連邦独立当初に勃発した、ビルマ共産党(CPB)およびカレン民族同盟(KNU)の蜂起がその嚆矢であり、ウー・ヌ政権および1962年にクーデターを介して成立したネ・ウィン政権はこれに対して有効な手立てを打つことができなかった。8888民主化運動の弾圧を経て成立したタンシュエ政権は、同時期におこったCPBの分裂を利用するかたちで多くの反政府勢力と停戦協定を結ぶことに成功した。テインセイン政権時代の2015年には全国停戦合意が締結されるもその後の進展は鈍く、2021年にミンアウンフライン国軍最高司令官がアウンサンスーチー政権を転覆させて以降は戦況が悪化している。
ミャンマー内戦 | |||||||
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戦況図(2024年) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
| 多数(ミャンマー内戦#主な武装勢力参照) | ||||||
部隊 | |||||||
ミャンマー内戦参与勢力の一覧) | |||||||
戦力 | |||||||
正規軍約406,000名 | - |
1885年11月、それまでビルマを支配していたコンバウン朝は第三次英緬戦争に敗れ滅亡し、同地域はイギリス領インド帝国ビルマ州として大英帝国の版図に置かれることとなった[1]。イギリス政府は植民地統治の枠組みとして、国勢調査のもと、ビルマの民族の文化の違い、境界線、居住区を明確にした[2]。植民地政府はビルマ族が住む平野部を管区ビルマ(英語: Ministerial Burma)、少数民族が多く住む山岳部を辺境地域(英語: Excluded areas)として分離した[1][3]。
前者の管区ビルマにおいては、インド総督の任命するビルマ州知事が直接統治をおこない、首都ラングーンに置かれた植民地政庁を中心に、管区から村落までがトップダウン式に管理される官僚的支配が貫かれた。これにともない、王朝時代の政体は一切が廃止された[4]。一方で、後者の辺境地域、すなわち東部のカレンニー族、東北部のシャン族、北部のカチン族、北西部のチン族をはじめとする少数民族が住む、丘陵・山岳地帯は、間接統治の対象となった[5]。シャン・カレンニー地域ではツァオパー(saohpa)ないしソーブワー(sawbwa)とよばれる在地首長の権威が認められたほか、カチン・チン・ナガといったその他の少数民族の住む地域でも首長の地位が温存された[6]。辺境地域には厳しい移動制限がくわえられ、両地域の意思疎通はほとんど不可能であった。この政策は、独立国家としてのビルマの国民統合に悪影響を与えた[7]。またビルマ族を軽視して、カレン族、カチン族、チン族を重用していたイギリス植民地軍の構成(ミャンマー軍#英領ビルマ(1885~1942))や、やはりビルマ族より少数民族を重用していた行政機構の構成も、のちの民族同士の対立の火種になったと言われている[注釈 1][注釈 2]。
いずれにせよ、1942年の日本軍によるビルマ侵攻を通して、ビルマの覇権はイギリスから日本に移り変わった。これに際して、日本軍が支援したのが、ビルマ系の独立勢力である、タキン党こと「我らバマー人連盟」である。1930年代ごろに成立した同組織は、イギリス植民地当局との直接対決を通じた完全独立を目指し、盛んに反英運動をおこなっていた。この組織には、のちにビルマの独立を主導するタキン・アウンサンも参加していた。1941年、日本軍のビルマ謀略機関である「南機関」を率いる鈴木敬司は彼を説得したのち、タキン党員のいわゆる「30人の同志」に軍事訓練をほどこしたのちビルマ独立義勇軍(英語: Burma Independence Army、BIA)を設立させた。BIAは日本軍のビルマ攻略に参与し、1943年には日本の強い影響のもと、バー・モウを首相とする、形式上の独立国である「ビルマ国」が成立した[8]。
一方で、タキン党内においても日本軍への協力をよしとしない勢力は、抗日の立場をとった。ビルマ共産党(英語: Communist Party of Burma、CPB)および人民革命党(英語: People's Revolutionary Party、PRP)はいずれもタキン党内の結社勢力として結成された。CPBはアウンサンを書記長として1939年に成立し、日本軍との協力関係を結ぼうとする以前の彼は中国共産党との連携を図っていた。また、PRPも、その発端の詳細は不詳であるものの、PRP設立の直後に成立した[9]。CPBは秘密結社であり、その結成メンバーの多くがタキン党の幹部でもあるという性質上、初期にはほとんど活動していなかったものの、1942年にタキン・ソーが再興させた[10]。ソーは1941年、タキン・タントゥンとともにインセイン宣言(英語: Insein Manifesto)を発表し、ファシズム勢力との対決のためイギリスとの一時的に協力することを主張した。タントゥンはビルマ国の土地・農業大臣をつとめながらもCPBに協力しつづけ[11]、1944年にはピャーポン郡区での第1回共産党大会を成功させた。タキン・ミャらによるPRPも、CPB同様に共産主義の影響を強く受けた組織であったが、PRPは対英協力をおこなおうとするCPBを批判した[10]。
また、国内の少数民族であるカレン族も態度を硬化させつつあった。キリスト教を受容し、英語を解するものも多かったカレン族(なかでもスゴー・カレン族)は強い自民族ナショナリズムを有していた。カレン民族協会は植民地期ビルマで最初に結成された民族名を冠した組織で、その目的は英植民地政府に対してカレン族の存在を知らしめ、働きかけをしていこうとするものだったと言われている[12][13]。しかし1942年に日本軍がミャンマーを占領した際、イギリス軍が退却した同年3月から3か月後の日本軍による軍政発布という空白期間の間に、イラワディ管区・ミャウンミャで、ビルマ族とカレン族との間に武力衝突が発生した。当時、イラワディ管区はBIAを自称する20代の若者たちが一時的に行政権を握っていたが、彼らには兵器が不足していた。彼らがイラワディに続々と帰郷してきた元英軍のカレン族兵士に兵器を差し出すように要求したことが、両者の衝突の契機となった。同事件は、推計5000人の死者と1万8000人の避難民が出る大惨事となった[注釈 3]。この事件により、これ以前は多様であったビルマ族とカレン族の関係は[注釈 4]、ビルマ族対カレン族という対立の構造に集約されていくったと言われている。ただその一方で、極少数ではあったが、ビルマ独立義勇軍改めビルマ国民軍(BNA)に参加していたカレン族もいた。アウンサウンらビルマ国民軍幹部としては、ミャウンミャ事件の再発を防ぐべくカレン族兵士の協力を必要としており、カレン族側からしてもイギリス撤退後は大多数派のビルマ族と協力するしか道はないということで両者の利害が一致した結果だった[14]。
さらにラカイン州では、1942年に日本軍がミャンマーを占領し、アキャブ空港を占領する5月4日に先立つこと1か月前の4月3日、アキャブに先に到着したビルマ族中心のビルマ独立義勇軍が、ムスリムの村を攻撃して多数の死傷者を出した。1943年のイギリスのラカイン奪還作戦の最中には、ラカイン族とムスリムがお互いを襲撃し合うという悲劇も起きた。またラカイン族がビルマ国民軍傘下のアラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA)に付いたのに対し、ムスリムはイギリス軍が結成したVフォースに付いて諜報・破壊活動に携わり、これにより両者の亀裂はさらに深まっていった[15]。
インパール作戦の失敗により日本軍の劣勢が決定的となった1944年、ビルマ国の国防大臣をつとめていたアウンサンは、これ以上の対日協力に意味はないと判断した[16]。抗日運動の展開という共通の利益のもと、ビルマ国民軍・CPB・PRPの3勢力は反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)として団結した[10]。AFPFLは1945年3月27日より抗日武装蜂起を開始し、5月には連合国司令官の指揮下に入った[17]。同年中に日本軍は敗退し、アウンサンはイギリス領ビルマ政府総督レジナルド・ドーマン=スミスとの交渉を開始した。隣接するインドで独立運動が激化していたことも影響し、当時のイギリス首相であるクレメント・アトリーはビルマに対して大幅な譲歩の姿勢をとった[18]。1947年1月27日には、両者の間でアウン・サン=アトリー協定(英語: Aung San-Attlee Agreement)が調印され、1年以内のビルマの完全独立ないし自治領化が認められた[注釈 5][19][18]。また、同年2月12日にはアウンサンと少数民族の代表によりパンロン協定が締結され、辺境地域の内政における完全な自治権および、自治州の連邦からの離脱権が認められた[20]。
一方で、AFPFLに所属していたビルマ共産党の間では、指導者同士の間での軋轢が生じていた。1945年7月20日におこなわれた第2回ビルマ共産党大会においては、資本主義と共産主義の融和をはかるブラウダーイズムの導入が図られたが、これに反発するタキン・ソーは赤旗共産党を分派させた。タントゥン率いる多数派である白旗共産党はAFPFLに残留し続けたが、赤旗共産党は連盟を追放された。1946年9月には公務員の手当問題を契機としてゼネラル・ストライキが発生し、イギリス政府はこれを収めるべくAFPFL構成員を行政参事会に加えいれることにした。白旗共産党は当初これに応じたものの、赤旗共産党からの日和見主義であるとの攻撃を受け、これに反対するようになった。白旗共産党は「植民地主義者の大手品」とAFPFLを激しく攻撃し、1946年10月10日には白旗共産党も連盟を除名されるに至った[10]。
1948年1月4日、ビルマ連邦は独立した。しかしその直後、ウー・ヌ政権の反共政策に対して、ビルマ共産党は1948年4月2日に蜂起した。同年、カレン族のカレン民族同盟(KNU)と当時のその軍事部門・カレン民族防衛機構(KNDO)が反乱を起こし、また与党・反ファシスト人民自由連盟の民兵組織・人民義勇軍(PVO)の共産党支持勢力である革命ビルマ軍(RBA)、国軍内のカレン族兵士や共産党に同調した勢力が離反した[21]。1949年には、中国国内から国共内戦に敗れた中国国民党(KMT)軍がシャン州に逃れてきて、CIAの支援を受け[22]、現地の少数民族と結託して同地域を占拠した(泰緬孤軍)[注釈 6]。同年、カレンニー州やモン州でも小規模な武装組織が結成され、ラカイン州北部ではムスリムのムジャヒッド党が反乱を起こした[23]。パンロン協定で一定の地位が認められたカチン族、チン族、シャン族は、中央集権的なウー・ヌ政権に不満があったものの、恩義を感じて、当初は国軍側に加勢していたが、それでも、第二次世界大戦の英雄で、国軍の第1カチン・ライフル部隊を率いていたノー・センは、同じキリスト教徒のカレン族と戦うことをよしとせず、カレン族側に寝返った[24]。反乱の火は全土で燃え広がり、1949年の段階ではウー・ヌ政権はラングーン周辺の半径10km以内のみを実効支配するだけで、ビルマ政府ならぬ「ラングーン政府」と揶揄される事態に至った[21][25][26]。
この事態に対して、ウー・ヌは陸軍参謀総長(国軍総司令官)のスミス・ドゥン以下カレン族の将校・兵士を全員解雇し[27]、後任にネ・ウィンを据えた。ネ・ウィンが最高司令官になった時点で、国軍は人員の42%と全装備の45%を失っており、反乱軍が計3万人以上の兵力だったのに対し、わずか2千人の兵力しかなかった[28]。
ネ・ウィンはカレン族将校の他、親英派、忠実でない将校などの多くの同僚を排除して、その後釜に自身が隊長を務めていた国軍第4ビルマ・ライフル部隊出身者を据えた[23]。そして地方有力者の協力を得てリクルートした若者たちをシッウンダン(Sitwundan)という民兵組織に編成して、それはすぐに52個中隊になった[29][22]、カチン・ライフル部隊を3個大隊から6個大隊に増設して、新たにシャン・ライフル部隊とカレンニー・ライフル部隊を設置した[30]。これによって1949年2月の時点で6個大隊・約1万5千人しかいなかった兵力[31]を、1953年までに41個大隊に拡大し、その兵力も1955年までに約4万人に達した[22]。またウー・ヌの呼びかけにより一旦政府に反旗を翻した人民義勇軍も国軍側に再度寝返った[22]。またイギリスとインドは1000丁の小火器をビルマ政府に提供し、さらにイギリスはオーストラリア、パキスタン、スリランカといった英連邦諸国に、ビルマ政府に対して600万ポンドを融資させた[注釈 7][32]。またウー・ヌの要請に応じて、アメリカも沿岸警備隊の元巡視艇10隻を提供した[33]。
これらにより反撃態勢を整えた国軍は、1950年代半ばまでにビルマ共産党をエーヤワディーデルタ地域とバゴー山脈へ、カレン族の反乱軍をエーヤワディーデルタ地域とタイ国境の山岳地帯へ、ムジャヒッド党を東パキスタン(現バングラデシュ)国境地帯へと追いやり、国土の主要地域の回復に成功した。唯一、中国国民党軍だけには手こずったが、1953年3月、ミャンマー政府はシャン州の一部を占領した中国国民党軍に対応するよう国連に要請。4月の国連総会で中国国民党軍の占領はミャンマーの主権侵害とする国連総会決議が採択され、これにより中国国民党軍の大部分は台湾に送還された。居残っていた中国国民党軍も、1960年の中緬国境条約にもとづく国軍と中国人民解放軍との共同作戦(メコン作戦)により、1961年1月末までに中国国民党軍の占領地域のほぼすべてを奪還した[34]。
反乱は一段落したが、政界は混乱していた。1958年、独立以来、絶対多数与党だったAFPFLが、ウー・ヌの清廉派とバー・スエらビルマ社会党のメンバーからなる安定派に分裂(与党は清廉派、国軍は安定派支持)。同年10月、国軍北部軍管区司令部のクーデター計画が発覚し、これを抑えるためにウー・ヌは、1959年4月末までに総選挙を行うことを条件にネ・ウィンに政権移譲し、ネ・ウィン選挙管理内閣が成立した。件の内閣は、武装勢力鎮圧と治安回復、物価の引き下げ、行政機構の刷新、ヤンゴンの美化、シャン州・カレンニー州の土侯の伝統的世襲特権の廃止、中国との国境画定などそれなりの実績を出しつつ、約束どおり1960年2月の総選挙に勝利した清廉派に政権を返還した[注釈 8]。
しかし、この清廉派内閣も安定しなかった。まずパンロン協定に定められた独立10年後の連邦離脱権が発効していたシャン州とカレンニー州では、独立を求めて小規模な反乱が発生していた。その一方、シャン族の初代大統領・サオ・シュエタイッらシャン州の元土侯たちは、武力ではなく、あくまでも法的・憲法的枠内での解決を図るべく「真の連邦制」を求める運動を起こし、1961年6月、様々な民族のリーダーたちを集めてタウンジーで全州会議を開催。そして①ビルマ人のための「ビルマ州」の設置、②国会上院議席への各州の同数割当て③中央政府の権限を外交や国防などに限定することを要求、そのための憲法改正を訴えた[35]。これはシャン州のみならず、国家全体の統治制度の改革を求めた点で非常に画期的なものであり、パンロン協定で認められたシャン州、カチン州、カレンニー州の他、チン州、モン州、ラカイン州の設置を求める決議もなされ(ただしモン州は1958年にモン族の武装勢力と政府が停戦合意した際に、既に州設置の約束がされていた)、ウー・ヌは1960年の選挙で公約していたモン州とラカイン州の設置を1962年9月までに実施せざるをえなくなった。またネ・ウィン選挙管理内閣下で行われた中国との国境画定により、従来カチン州の領土とされていたピモー、ゴーラン、カンパン地方を中国に割譲したこと、ウー・ヌが選挙で仏教国教化を公約に掲げていたこと(のちに撤回)に反発したカチン族の有志が、1961年2月にカチン独立軍(KIO)を結成し、反政府武装闘争を開始した[36]。
この時期の反乱は小規模なものだったが、「真の連邦制」は国軍の目には連邦分裂をもたらしかねない危険思想と映っていたようだ。そして、このような国家危機を前にしても、汚職に塗れ、民族やイデオロギーで対立し、連邦統一を危機に晒す政治家たちの姿に国軍は幻滅し、民主主義、ひいては国民に対する不信感を募らせたとも伝えられている[注釈 9][37]。
折しも、独立直後の反乱の鎮圧に手こずった国軍は、この間、自身の強化に務めていた。
国軍は、独立直後の1948年に士官訓練学校(OTS)を設立していたが、訓練期間も訓練マニュアルも訓練用兵器も不足しており、兵士の質は低かった。また将校についても、イギリス、インド、パキスタンなどの国々の訓練学校に派遣して養成していたが、それも不十分だった。こうした状態を憂慮した国軍は、1955年に国軍士官学校(DSA)、1958年に国防大学(NDC)(1958年)などの教育施設を設立。さらに留学にも力を入れ、サンドハースト王立陸軍士官学校など、イギリス、アメリカ、オーストラリアの名門士官学校に多数の将校を留学させ、人材育成に力を注いだ。ちなみにミャンマーの訓練学校のマニュアルはイギリスのもの、教官は日本軍の下で訓練を受けた者が多かったので、国軍は「日本的な心を持った英国的な組織」とも言われているのだという[38]。
当時、兵器はインド、イギリス、イスラエル、ユーゴスラビア、スウェーデンなど様々な国から調達していたが、国軍はフリッツ・ヴェルナー(Fritz Werner)という西ドイツの小さな兵器会社と提携して自前生産に乗り出し、ヤンゴン郊外に工場を設立して、新型歩兵銃G-3やその他の兵器を生産し始めた。なお国軍の主要な兵器調達のほとんどは、1950年代と1960年代初めに行われ、その後は1990年代に入るまでほとんど更新されず、兵器の近代化は大幅に遅れていた[38][23]。
国軍は、国民、反乱分子、共産党支持者に対する心理戦を遂行するために、1952年に陸軍心理戦局(The Psychological Warfare Department)を設立。メンバーには元CPB党員も採用し、その規模を着実に拡大。国防省歴史研究所の設立、文化祭、ラジオ番組、全国的な反共ビラ配布など多くのプロジェクトを手がけ、1952年から1953年にかけて約115万枚もの反共ビラを全国で撒いた。また反共雑誌『ミャワディ』も創刊され、これは現在まで存続し、国営テレビの名前にもなっている。さらに国軍は自分たちの考えを国民に伝えるために1955年、日刊紙『ガーディアン』を創刊した。創刊者は1988年民主化運動の際にビルマ社会主義計画党(BSPP)議長に抜擢された法律家のマウンマウン、編集長はミャンマーを代表するジャーナリストでAP通信記者も務めたセインウィンだった[38][39][22]。
1958年、軍事情報局(Military Intelligence Service:MIS)を設立した。責任者はネ・ウィンが若い頃から目をかけていたティンウー(Tin Oo)であった(1974年から1976年まで国軍総司令官を努め、NLD副議長も務めたティンウーとは別人)。ネ・ウィンは日本軍の指導下で習得した、拷問を含む憲兵隊仕込みの諜報術をティンウーに授けた。その後、ティンウーはアメリカCIAとイギリス王立憲兵隊(RMP)に派遣されて訓練を受けた。MISのスパイは反政府活動家の家族、少数民族武装勢力などどこにでも潜んでおり、また民間人だけではなく軍人、国内だけではなく海外に亡命した反政府活動家も監視対象として、海外の諜報機関ともつながっていた。さらにMISは独自の刑務所と拷問センターも有しており、特にヤンゴンのミンガラドンにあるYay Kyi Aingは悪名高い[40]。MISの存在は「エムアイ」の名前で人口に膾炙しており、ティンウーは「MIティンウー」と呼ばれ、1983年に失脚するまでネ・ウィンの絶大な信頼を得ていた[40][41]。
国軍は将校・兵士とその家族の福利厚生を図り、忠誠心を高めるためのビジネスにも乗り出し、1951年に幹部のほとんどを第4ビルマ・ライフル部隊出身者で占める非営利組織・国防サービス研究所(The Defence Service Institute)を設立した。まずヤンゴンのスーレーパゴダ通りに、軍人とその家族に低価格の輸入品や地産品を供給する雑貨店を開業して成功を収め、数年のうちに全国18店舗に拡大。次にアバハウス(Ava House)という文房具店兼出版社を設立した。これは軍人だけではなく一般にも開放され、これも成功を収めた。自信を付けた国軍はビジネスを巨大化させ、高品質の外国製品を一般消費者に販売するデパート・ロウ・アンド・カンパニー(Rowe & Co)、民営のA・スコット銀行を買収して改組したアバ銀行、東アジア会社を買収して改組したビルマ・アジア会社、7隻の船を保有する貨物船サービス会社ビルマ・ファイブスター・シッピング・ライン(Burma Five Star Shipping Line)など多数の企業を設立し、他にも石炭の輸入ライセンス取得、ホテル、水産業、鶏肉流通業、建設業、ラングーンとマンダレーを結ぶバス路線、国内最大の百貨店チェーンなどを傘下に収めた[38][23]。
そして1962年3月2日、まさにウー・ヌがラングーンで閣僚や少数民族の代表団と会談しているその時にネ・ウィンはクーデターを決行し、ウー・ヌ以下内閣の閣僚と会談出席者全員を拘束した。クーデター[注釈 10]によって成立したネ・ウィン軍事政権・革命評議会は、ビルマ社会主義計画党 (BSPP)による一党独裁と、同党が掲げたビルマ式社会主義にもとづく国有化を手段とした統制経済を特徴とした。ビルマ社会主義計画党 、行政、地方行政、治安組織、工場、貿易、流通の要所に現役または退役軍人を配し、それを徹底した弾圧、言論弾圧、情報局の強化、市民による相互監視制度によって防衛。そしてあらゆる企業、銀行、店舗、工業、工場、国防サービス研究所(DSI)の傘下にあった国軍系企業も国有化され、そのほとんどが新たに設立されたビルマ経済開発公社(BEDC)の傘下に置かれた。特に長らくミャンマー人を搾取していたとされるインド人、中国人の資本は容赦なくすべて国有化され、彼らの多くがミャンマーを去った。経済の中枢を握っていたインド人、中国人を追放したことは、のちにミャンマー経済低迷の要因となったとも言われている[42]。
クーデターから4か月後の1962年7月7日には、早くも流血沙汰が発生した。大学の管理強化に反対するヤンゴン大学の学生がキャンパス内でデモを行ったところ、治安部隊がこれに発砲、数百人の死者が出た。さらに翌日、治安部隊は、アウンサンが集会に使ったこともある由緒ある学生会館をダイナマイトで爆破した。弾圧された学生たちは1988年や2021年の時と同じように、カレン州、カチン州、シャン州の武装勢力やビルマ共産党の元に赴き、軍事訓練を受けて武装闘争の一員に加わった。なおビルマ共産党ではこの直後1964年ごろから路線対立による中国帰りの党員が主導した粛清の嵐が吹き荒れ、古くからの幹部だけではなく、クーデター後に合流した学生たちの多くも人民裁判にかけられて処刑された。この話はすぐに学生の間に広まり、以降ビルマ共産党は都市部インテリの間での支持を完全に失ってしまった[43]。
このような軍事独裁政権の誕生は、当然、少数民族武装勢力の武装闘争をも刺激、この事態に対してネ・ウィンはまず柔軟路線で臨んだ。1963年4月3日に一般恩赦を宣言、KNDOやKIAの幹部を含む4345人もの政治犯を釈放し、これに呼応してKNDO、赤旗共産党、白旗共産党の幹部が投降した。6月11日には武装勢力のリーダーたちに対して和平交渉を呼びかけ、 ビルマ語、カレン語、シャン語などによるパ ンフレットを300万枚印刷して各武装勢力に送り、ラジオ放送を通じて各言語で呼びかけを行った。同時に全国各地の軍隊に指令を発して、武装勢力から和平交渉受諾の連絡があれば、即座に戦闘を中止すること、使節団の安全を保証すること、交渉が決裂した場合でも、 責任をもって送り返し、3日間は戦闘を再開しないことなどを命じた[44]。この呼びかけに応じて、ビルマ共産党、赤旗ビルマ共産党、カレン民族同盟、新モン州党(NMSP)、カレンニー民族進歩党(KNPP)、チン議長評議会(CPC)、カチン独立機構、シャン州独立軍(SSIA)、シャン民族統一戦線(SNU)が、ヤンゴンで開かれた和平会議に参加した。ちなみに当時、ビルマ共産党、カレン民族同盟、新モン州党、カレンニー民族進歩党、チン議長評議会は国民族民主統一戦線(NDUF)という同盟を組んでいた[23]。しかし政府が示した条件は①すべての部隊を政府指定地域に集中させること②許可なくその地域を離れないこと③すべての組織活動・資金活動を停止すること④軍事基地の場所を公開することなどで、到底各武装勢力が承服しがたいものだったので、11月14日、交渉は決裂[45]。結局、停戦合意を結んだのはコートゥーレイ革命評議会(KRC)というカレン民族同盟の一派だけだった。ちなみにこの際、中国四川省からやって来たビルマ共産党の幹部たちは、和平交渉が終わっても中国へは戻らず、ペグー・ヨマでゲリラ活動を展開していた自党勢力に加わって指導者となり、四川省の亡命党員との間につながりを作った[46]。
和平交渉は失敗に終わったが、国軍は国内の反乱を鎮圧しない限り、外国の侵略を受けるという危機感を抱いており、従来のビルマ共産党を仮想的としながら、内実が伴わなかった軍事ドクトリンの改定に着手した。新しい第二次軍事ドクトリンは①外国勢力対策、②国内反乱対策から成り立っていた。
強大な外敵に対しては、国軍は、国民の総力を結集したゲリラ戦略を執る人民戦争理論を導入した。1964年7月、のちに首相を務めたトゥンティン(Tun Tin)率いる調査団が、スイス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、東ドイツに派遣され、人民戦争に関する調査を行い、同様に近隣諸国にも調査団が派遣された。この頃、毛沢東の一連の著作や林彪の『人民戦争』、チェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』が国軍将校たちの間で広く読まれたのだという。結果、人民戦争を遂行するためには、平時に約100万人の正規軍、非常時にさらに約500万人の民兵を動員する能力が必要とされ、そのための人材育成機関の設立や2年間の兵役義務化が提言された。しかし国内の反乱を鎮圧する前に大量の民兵動員を行うことは、むしろ有害という認識が国軍内で広まり、結局、この大量動員は実現しなかった。それでも1965年までに人民戦争は国軍の正式ドクトリンとして受け入れられ、各種国軍系出版物を通して人口に膾炙し、1971年のビルマ社会主義計画党第1回党大会で正式に承認された。また人民戦争理論は国内反乱対策においても有効とされ、各地で民兵グループが結成され、まだノウハウは確立していなかったものの、ビルマ共産党など国内の反政府武装勢力との戦闘で件のドクトリンにもとづく作戦が実行され、成功を収めたとされた[47]。
国内反乱対策
一方、国内の反政府武装勢力に対しては、山岳部に追いやられた各武装勢力がゲリラ戦に転じたことにより[21]、国軍も偵察、待ち伏せ、夜間戦などの対ゲリラ戦術を導入し、武装勢力の幹部の逮捕・拘束、正確な情報、敵軍の殲滅(占領ではなく)、小隊レベルの戦術的独立性が重要視された。そしてこれを遂行するためには、人民戦争理論と同様に、政治、社会、経済、軍事、公共管理という”5つの柱”を総動員することが不可欠とされ、そのためには国民との支持と協力が重要ということで、兵士の規律の改善が強調された[48]。
1968年には、のちに首相を務めたトゥンテインがイギリス留学から持ち帰った戦略を元に四断作戦(four cuts)が策定された[49]。これは、反政府勢力の食糧・資金・情報・徴兵を絶ったうえで、根拠地を攻撃するというものである[34]。国内反乱対策の優先順位は、まずエーヤワディーデルタ地帯を確保して強化したのち、国境地帯に拠点を持つ武装勢力に攻撃を仕かけるというものだった[50]。
国軍は、陸軍参謀本部直轄の軽歩兵師団(LID)という機動性に優れる精鋭部隊を編成し、1966年に第77師団(バゴー)、1967年に第88師団(マグウェー)、1968年に第99次師団(メイッティーラ)、1970年代半ばから後半にかけて第66師団(プロム)と第55師団(アウンバン)と第44師団(タトン)を設置。対カレン民族同盟の第44師団以外はすべて対ビルマ共産党対策だった。また軍機構も、1961年に2軍管区(南部、北部)14旅団制から、旅団制を廃止して5軍管区(東南、西南、中央、西北、東部)に再編していたものを、1972年には9軍管区(北部、北西、北東、東部、西部、中央、南西、ヤンゴン、南東)に再々編して、軍管区を南北で統括する2つの特別作戦部を置いた。兵力も増強して、クーデター当時10万人前後だった兵力は1974年までに15万人、1980年には18万人にまで増加。国防費は1950年代から1970 年代にかけて平均して政府総支出の 3 分の1を占めていた。人材はあらゆる民族、宗教、階層から幅広く集められ、出世はある程度実力主義であったため、少数民族や非仏教徒出身の将校もいた[38]。
1963年、国軍はシャン州の武装勢力を弱体化させることを目的として、カクウェーイェ(Ka Kwe Ye: KKY、「防衛」という意味)という制度を導入した。これは反乱軍と戦うことの見返りにシャン州内の政府管理のすべての道路と町をアヘン密輸のために使用する権利が与えるというもので、麻薬取引でKKYが経済的に自立しつつ、反政府武装勢力と戦うことを政府は期待しており、兵力不足と財政難を解決する一石二鳥の策のはずだった。KKYの司令官として地元の軍閥、非政治的な山賊や私兵の司令官、亡命した反政府勢力などがリクルートされ、その中にはのちに”麻薬王”として名を馳せるロー・シンハンやクン・サがいた。彼らは麻薬生産・密売で巨万の富を築き、タイやラオスのブラックマーケットで高性能兵器を入手した。また当地に駐屯した国軍もアヘン商隊に対する通行税や護衛費や賄賂などで巨額の利益を得た。したがって、KKY司令官、国軍ともに麻薬取引を拡大させるインセンティブが働き、しかも彼らは反乱軍と戦闘を交えず交渉で問題解決を図ったので、反乱軍の弱体化という当初の目的は果たせず、むしろ、大陸奪還の夢が潰えた中国国民党が軍閥化して麻薬生産を拡大したこと、後述する闇経済の拡大により、アヘンと引き換えにタイ国境で入手できる消費財、繊維製品、機械類、医薬品などがミャンマー国内で高額で売れたことで、麻薬取引のインセンティブが高まったことなどにより、1974年ごろにはシャン州含む周辺のタイ・ラオス一帯は世界のアヘン生産の3分の1を占めるに至り、ゴールデン・トライアングルと呼ばれるアフガニスタンに次ぐ世界第2位のアヘンの一大生産地となる皮肉な結果となった[23][51]。このようにKKY制度は、まったく役立たないことが判明したので、1973年に廃止された[52]。
ビルマ式社会主義の下、ほぼすべての商工業資本が国有化されたことにより、経済に著しい不効率が生じて深刻なモノ不足が生じ、その穴をインド人、中国人を主とする闇商人・密輸業者が埋めた。彼らはタイ、中国、インド、東パキスタン(バングラデシュ)の国境地帯に馳せ参じ、特にタイ国境での密貿易は盛んで、タイからミャンマーへは消費財、繊維製品、機械類、医薬品、ミャンマーからタイへはチーク材、鉱物、ヒスイ、宝石、アヘンが流れていった。当時、ミャンマーで入手できる消費財の80%がタイからの密輸品だったと言われている。少数民族武装勢力はこのような国境に料金所を設置して通関税を徴収し、兵器を入手した。タイ政府もタイ共産党との戦闘に注力するためにミャンマーの少数民族武装勢力を国境警備隊として利用することを考え、密貿易を黙認した[22]。政府としても即座にモノ不足を解消する手立てがないために、件の密貿易を黙認するしかなかった[53][54]。
中国共産党はウー・ヌ政権時代は中立政策を取っていたが、1967年にヤンゴンで反中暴動が発生すると、ネ・ウィンがこれを黙認したと考え、一転してビルマ共産党支援に方針転換。1950年に中国雲南省に亡命したカチン族独立運動の英雄ノー・センをリーダーに抜擢して軍事訓練を施し、虎視眈々とミャンマー侵攻の機会を狙っていた。そして1968年1月1日、ノー・セン率いる雲南省のカチン族義勇兵を中心とするビルマ共産党の部隊は、シャン州北端モンコーに侵入して国軍駐屯地を占領。以後、件の地域の国軍の軍事拠点を次々と攻略し、ミャンマー中央部侵攻には失敗したものの、1972年末にワ丘陵地帯のパンサンに司令部を置き、シャン州北部に解放区を築いた[55]。
以後、ビルマ共産党は中国から譲り受けた兵器を他の少数民族武装勢力に供給することによって、一定の影響力を保っていく[55]とともに、ビルマ共産党への対応を巡って少数民族武装勢力に混乱をもたらすことになった。例えばシャン州ではシャン州進歩党(SSPP)/シャン州軍(SSA)が一定の勢力を保っていたが、1974年、一部幹部がビルマ共産党と同盟を結ぶことを決定し、SSPP/SSAの理論的支柱だったサオ・ツァンはタイへ亡命した[56]。カレンニー州では1978年、カレンニー民族進歩党(KNPP)/カレンニー軍(AA)の一部のメンバーが脱退してカレンニー民族人民解放戦線 (KNPLF)を結成した。またカレン族の反乱軍の間でもビルマ共産党に対する対応を巡って内紛が生じ、カチン州では1979年、国軍とビルマ共産党との2面対決に疲弊したカチン独立軍がビルマ共産党と停戦合意を結んだ。1976年には多くの少数民族武装勢力が参加した民族民主戦線(NDF)が結成された[57]。
ただ1960年代から1970年代を通して闇市場の資金源とビルマ共産党が供給する兵器があったのにも関わらず、ビルマ共産党と同盟を結んだ各勢力が大きく勢力を拡大することはなかった。
一方、クーデターの際、逮捕投獄されたウー・ヌは1966年に釈放され、その後タイ、インドで亡命生活を送っていたが、1969年、独立の英雄・30人の志士の4人や民政時代の旧政治家を引き入れ、1969年議会制民主党(Parliamentary Democracy Party:PDP)/愛国解放軍(Patriotic Liberation Army:PLA)を結成した。そして翌年、ロンドンで記者会見を開き、ネ・ウィン政権に対して武装闘争を開始することを宣言したのである。ウー・ヌにはビルマ式社会主義に不満な都市保守層、役人、知識人、中堅軍人からの一定の支持があった。ウー・ヌはアメリカ、日本、香港で民主主義の回復を訴えてタイに戻り、同年、カレン民族同盟とモン民族解放軍(MNLA)と連帯して国民統一戦線(National United Front:NUF)を結成した。資金源は旧友たちからの寄付や石油探査の独占権と引き換えにカナダや中東の石油会社から引き出した1000万ドルだった。1972年までに兵力は1200人ほどに達し、ヤンゴン、バゴー、モーラミャインで発電所や送電線の破壊工作を行ったり、ヤンゴン上空から飛行機で市民に反乱を呼びかけるビラを撒いたりした[注釈 11]。しかしKNLAとMNLAがそれぞれカレン州・モン州の連邦離脱権を主張したため同盟は瓦解。1973年、ウー・ヌがアメリカに亡命したのちは、30人の志士の1人・ボレヤ(Bo Let Ya)が人民愛国党(People’s Patriotic Party:PPP)を引き継いで絶望的な活動を続けていたが、1974年に新憲法が制定された際の恩赦で多数のメンバーが政府に投降。同年ウ・タントの葬儀を機に発生した学生デモが弾圧された際には、多くの学生が人民愛国党に合流してやや勢力を持ち直したが、1978年11月29日、ボレヤはカレン民族同盟の権力争いに巻き込まれて殺害され、残った兵士たちは故郷に戻るか、タイへ移住した[58][59]。
ビルマ社会主義への道が経済活動の著しい不効率化を招いたため、経済は停滞した。1964年から1974年までの平均経済成長率はわずか2.1%だった。さらに1970年代に入って頼みの米生産が振るわなくなり、1973年には石油ショックの影響で米価格が高騰。庶民は配給価格の3倍以上の価格の闇米に頼らざるをえなくなり、失業問題も深刻化していった。そんな折、1974年に新憲法が制定された。唯一認められた政党はビルマ社会主義計画党のみで、その議長はネ・ウィンで大統領を兼任するという実態はほとんど変わらなかったものの、人民議会という国権の最高機関が設置され、曲がりなりにも民政移管が達成された。しかしこれにより行政処理に時間がかかるようになり臨機応変な対応が取れなくなったこと、軍人と党人との間の内紛が激しくなったこと、世間の緊張が若干緩んだことも一因となって反政府運動が活発化した[60]。
1974年3月から6月にかけて全国で国営企業労働者と学生が提携して、米の増配と賃金引き上げを求めるストライキを実施。1962年のクーデター以来初の国営企業労働者のストライキは各界に衝撃を与え、ヤンゴンでは治安部隊がこれを弾圧し、100人近くの死者が出た。同年12月にはヤンゴンに到着したウ・タント前国連事務総長の遺体を政府が丁重に扱わなかったことに一部の学生、僧侶が激怒。彼らはウ・タントの遺体を奪うと、1962年の学生運動弾圧の際、国軍がダイナマイトで爆破したヤンゴン大学の学生会館の跡地に埋葬した。その後、彼らは町中に繰り出してネ・ウィン打倒のスローガンを叫びながらデモを行ったが、これにも治安部隊が発砲して多数の死傷者が出た(政府発表では死者9人、負傷者74人。学生の発表では死者3、400人)。翌1975年もヤンゴンではネ・ウィン打倒を掲げるテロやデモが頻発し、大学は閉鎖。6月にはタキン・コドーマイン生誕100年祭に合わせて大規模なデモが計画されていたが、事前に計画が漏れ、130人の学生が逮捕された。こののち、デモ隊への発砲を躊躇ったとしてティンウー国軍総司令官(のちの国民民主連盟《NLD》副議長)が更迭された[58]。
しかし、この更迭劇に不満なオーチョーミン(Ohn Kyaw Myint)陸軍大尉以下若い陸軍将校のグループが、1976年3月、ネ・ウィン大統領、サンユBSPP書記長、ティンウー国家情報局長の暗殺を計画した。暗殺は3月27日ヤンゴンの大統領官邸で開催された国軍記念日の晩餐会で決行する予定だったが、グループの連携が上手くいかず失敗。後日、再決行する予定だったが、その前に情報が漏れた。4月2日、オーチョーミンはアメリカ大使館に赴き政治亡命を求めたが、当時のアメリカ政府はミャンマー政府と良好な関係を保ちたいと考えていたので、これを拒否。結局、裏切り者が出て、オーチョーミン以下計画の首謀者13名が逮捕され、裁判にかけられたのち、オーチョーミンには死刑判決が下され、1979年に執行された。裁判ではビルマ式社会主義に否定的な国軍の首脳部ののかなりの数が事前に計画を知っていたという事実が明らかにされ、ティンウー元国軍総司令官も暗殺計画に関わったとして7年の懲役刑を受けた。もう1人チョーゾー(Kyaw Zaw)准将が計画への関与を疑われたが、逮捕直前にヤンゴンを脱出して、ビルマ共産党に合流し、ビルマ共産党の司令官に就任した。彼はクーデター後からビルマ共産党に内通しており、ヤンゴンでのテロ工作に関与していたのだ[61][58]。1977年9月にはビルマ社会主義計画党党員による別の要人暗殺計画とラカイン州独立計画が発覚した[62]。
こうして事態に対してネ・ウィンはビルマ式社会主義に固執するビルマ社会主義計画党・党員5万人の除籍という荒治療に出、同時に経済改革に乗り出して、対外経済協力の推進、高収量水稲の作付面積拡大、海底油田開発への外国企業招聘、民間企業の活動許可、国営企業の合理化といった改革を行った。その甲斐あってミャンマーの経済成長率は上昇に転じ、米生産・輸出量も拡大していった[60]。
中国の支援を受けるビルマ共産党の反乱は長らく政府の悩みの種だったが、1968年にカチン族の独立運動家・ノーセン率いるビルマ共産党の部隊がシャン州北部に解放区を設置した直後から、政府は中国との国交を回復して、ネ・ウィン以下政府要人が足繁く北京を訪問。再三ビルマ共産党への支援を止めるよう要請したが、中国政府は首を縦に振らなかった。しかし1977年に鄧小平が中国の実権を握ると、かねてより鄧小平批判を繰り返していたビルマ共産党の旗色は悪くなり、1977年にネ・ウィンが中国を、1978年に鄧小平がミャンマーをお互い訪問するに及び両国の国交は大幅に改善、鄧小平はビルマ共産党への支援の削減を開始した[63]。さらに1980年に中国が国境を広く開放してビルマ共産党が国境貿易を独占できなくなったこと[64]、1970年代後半からミャンマー経済が回復基調に転じて、国内生産の回復による国産品に押され密輸品の売れ行きが不振に陥ったことにより[65]、ビルマ共産党は資金不足に陥り、その活動は停滞していった。
ビルマ共産党の弱体化を見て取ったネ・ウィンは、1980年5月大恩赦令を発布、90日以内に出頭すればいかなる処罰も下さないと宣言した。これに応じてその家族を含めば2000人の武装勢力兵士が投降。その中にはインドに亡命して瞑想生活を送っていたウー・ヌや麻薬王のロー・シンハンも含まれていた[58]。ウー・ヌの帰順は、都市部の反政府指導者層の崩壊を意味するもので、その意義は小さくなかった[66]。
また同年、ネ・ウィンは僧侶の全国統一組織であるビルマ僧侶会議を結成。念願の僧侶登録制を導入し、僧侶に扮した反政府活動家や反政府活動をする新興仏教勢力の取り締まりを強化した。国軍は高僧や僧院に多額の寄付をすることで敬虔な仏教徒を装い、仏教の守護者という役割を強調することで、軍政支配を正当化するために仏教を利用してきた。ゆえに僧侶の反政府活動はその正当性を揺るがすものとして、時には少数民族武装勢力や民主化活動家に対するよりも苛烈に弾圧する傾向があった[67]。
さらにネ・ウィンは、中国を交渉の保証人としてビルマ共産党とカチン独立軍と和平交渉に臨んだ。ビルマ共産党との交渉はすぐに決裂したが、カチン独立軍との交渉は1980年8月から1981年5月まで長期に及び、しかしカチン独立軍が自治権と軍隊の維持を求めたのに対し、政府はあくまでもカチン独立軍の部隊を国境警備隊(BGF)に編入することを求めたため、結局、こちらの交渉も決裂した[58]。
和平交渉には失敗したが、健康状態が優れないこと、経済成長を軌道に乗せたこと、念願の国籍法制定(翌1982年制定)と反乱鎮圧の目途が立ったことなどから、1981年、ネ・ウィンは大統領職を辞任(ビルマ社会主義計画党議長には留まった)、後任には忠実な腹心のサンユを当てた。実質的にネ・ウィンの院政だったが、サンユは集団指導体制を敷いて派閥争いを牽制し、安定した政治体制を築いた[68]。
1983年5月、当時、ビルマ社会主義計画党・No.3まで昇りつめていた「MIティンウー」が、公金不正利用の罪で逮捕されて無期懲役刑に処せられ、MISの他の幹部も追放された。MISの力があまりにも強力になりすぎたため、政敵に嵌められたという説が有力である[69]。彼の失脚の悪影響はすぐに現れ、同年10月9日ヤンゴンのアウンサン廟でチョン・ドファン韓国大統領を狙った北朝鮮の工作員による爆弾テロがあり、大統領は命拾いをしたもの、韓国の閣僚4人を含む21人が死亡した(ラングーン事件)。MISが機能不全に陥っている隙を狙われた形であり、政府は情報局の再編に迫られ、キン・ニュンが新しい情報局長に任命された[70]。
この時期、前述したようにビルマ共産党からの兵器の供給が細ったこと、国境貿易が不振に陥り資金源が枯渇したことなどにより、ビルマ共産党以下各武装勢力の弱体化が進んだ。1984年、国軍はカレン民族解放軍(KNLA)を猛攻撃を仕かけ、カレン民族解放軍は広範な支配地域と貿易拠点を失った[71]。1986年には過去最大規模の攻撃をビルマ共産党に仕かけ、その解放区の一部を初めて攻略、ビルマ共産党のカチン族、パオ族などの少数民族出身の末端兵士の離反も相次いだ[72]。1987年にはカチン独立軍とビルマ共産党の根拠地を多数陥落させた。またこれらの地域では、かつてシャン州で実施したカ・キュイエ制度を導入し、武装勢力の弱体化を図った[73]。1985年と1987年に2度行われた廃貨令も、一時的にせよ各武装勢力に打撃を与えた(と同時に国民生活にも大打撃を与えた)[74]。
しかし1970年代後半から回復傾向だった経済は1982年ごろから再び低迷し始めた。主要輸出品の米や鉱産物などの価格が下落して輸入超過となり、国際収支が急速に悪化、外貨不足に陥った。さらに日本の最大の援助国としていたのが裏目に出て、急速な円高により対外債務が膨張。石油の生産量も減産に転じ、燃料不足に陥った。この事態に対して政府は、対外債務の返済が一部免除されることからLLDC(Least Among Less Developed Country:後発開発途上国)の認定を申請し、これが認められた[注釈 12]。1987年には各地で米騒動が相次ぎ、社会は混乱した。これに対してネ・ウィンは1987年8月10日「1962年のクーデター以来、25年を経過したが、この間成功もあれば失敗もあった。重要なことは失敗や誤りが何であり、その理由は何であったかを知ることである」「1962年当時と現在とで状況が変化していることは否定できない。時代の変化に応じて必要ならば、われわれも変化しなければならない。必要であれば憲法を改正する」と演説して暗に経済失政を認め、9月1日には農産物取引の自由化という画期的な政策を打ち出したが、この直後に前述した廃貨令を出し、しかも廃止された紙幣と小額紙幣との交換を認めなかったため財産を失う者が続出し、国民の大きな不満を抱いた[75]。
それが爆発したのが8888民主化運動である。喫茶店での若者同士の瑣末な喧嘩から始まった騒動は、やがて大規模な民主化運動とその弾圧に発展し、あれほど強固に思えたネ・ウィン政権を一夜にして打倒したものの、結局、国家法秩序回復評議会(SLORC、1997年に国家平和発展評議会に改組)という新たな軍政を生んだだけに終わった。ただ一連の騒動により、アウンサンスーチーの存在が国内外で脚光を浴び、以後、ミャンマーの民主化運動をリードしていくことになった[76]。
1988年民主化運動は、少数民族武装勢力ばかり相手にしてきた国軍にとって、「民主派」という新しい脅威の出現だった。もちろんスーチーが結成した国民民主連盟(NLD)は政党であり、武装勢力ではないが、しかし独立の英雄アウンサンの娘というカリスマ性があり、西側諸国とメディアを味方に付けて、声高に民主化を要求するアウンサンスーチーは、国軍の目には連邦分裂を招く脅威と映ったのは想像に難くない[22]。
この新たな脅威に対して、国軍はネ・ウィン辞任により図らずも世代交代を遂げた新しい陣容で臨み、①連邦分裂阻止②諸民族分裂阻止③国家主権堅持という3つの国家的大義が掲げられた。これは単なるスローガンではなく、2008年憲法の基本原則[77]にも掲げられた現実的目標だった。国名も1988年9月に「ビルマ連邦社会主義共和国」から独立時の「ビルマ連邦」に、1989年7月には「ミャンマー連邦」に変更し(ミャンマーの国名)、地名もラングーン→ヤンゴン、モールメン→モーラミャイン、アキャブ→シットウェ、イラワジ川→エーヤワディー川のように現地の発音に近いものに変更され、ナショナリズムを新たにした。またこの頃から、国軍幹部がパゴダを建設したり、高僧や僧院に高額の寄付をする様子が国営紙や国営テレビで度々取り上げられるようになり、仏教の守護者とのしての国軍の役割もなおいっそう強調されるようになった[78]。
8888民主化運動の根源的原因は経済失政ということは国軍も認識していたので、まずは経済の自由化に乗り出した。クーデターを機に海外からのODAはすべて停止されたため、同年、海外民間企業の投資を促す民間投資法を制定。また国境貿易を民間企業にも開放し、中国との国境に4地点、タイとの国境に2地点、政府公認の国境を設置した。民主派から資源の切り売りという批判を受けつつも、政府自らチーク材や宝石の売りこみにも乗り出した。1989年には国有企業法を制定。国有企業が独占する 12分野以外には民間企業にも開放し、私企業創設ラッシュが起きた。1992年からは経済4か年計画を実施。1996年を「観光の年」と定めたため、特に中国やシンガポールなど中華資本による観光業への投資が増加した。1990年代はミャンマーと中国との関係が緊密になった時期でもあった。そして1993年ごろから経済は好転し始め、この4か年計画の成功を受けて、1996年からは5か年計画をスタートさせた。不十分ではあったが国軍による90年代の経済改革は、1997年のアジア通貨危機までは一応の成果を上げていた[注釈 13][79]。
8888民主化運動の際に弾圧された若者の一部は、カレン州やカチン州の武装勢力の元に逃れて軍事訓練を受け、国軍相手にゲリラ戦を展開する様相を見せていた[80]。1988年9月1日、カレン民族同盟の当時の本拠地・マナプロウで全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)が結成され、彼らは少数民族武装勢力と民主派武装勢力の同盟・ビルマ民主同盟(DAB)にも参加した。1990年12月には1990年総選挙に当選しながらも、国軍に選挙結果を反故にされ、追われる身となった国民民主連盟の当選議員を中心にビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)が結成された[81]。そして、このような民主派勢力や少数民族武装勢力が外国勢力と結びつくのを恐れた国軍は、軍事ドクトリン再考、強大な外敵にも正規戦で対抗しうるよう、人民戦争ドクトリンを保持しつつ軍備の増強を図る「現代的条件下での人民戦争」という新ドクトリンを策定した[38]。
まず国軍は兵力の増強に乗り出した。陸軍の特別作戦部を2から6、軍管区を9から13、歩兵師団を8から10に拡大し、1988年から1999年の間に国軍の兵力は20万人から40万人に増加した。ただこの時期の拡大は、1962年ごろと違ってビルマ族仏教徒中心の採用に偏っており、かつてあった国軍の多様性は失われた。また国防省情報局(DDSI)についても1991年までに新しい部隊を9つ新設し、これまで限定的だった海外での活動を拡大。特に民主派が多数亡命しているタイでは外交官、情報提供者、メディアとの間の広範なネットワークを築いた。また正規兵だけではなく、退役軍人、軍人の妻や家族、志願した若者たちには随時軍事訓練が施され、国軍系大衆運動組織・連邦団結発展協会(USDA)、消防団、警察、赤十字、非政府組織(医師会、母子福祉協会)なども補助部隊として組織された[38]。
1989年、当陸軍参謀次長だったタンシュエが中国を訪問して14億ドルの兵器取引契約を結び、1987年から1997年の間にミャンマーが輸入した13億8000万ドルの兵器のうち、実に80%が中国製となった。1989年の天安門事件で国際的に孤立していた中国が、同じく国際的に孤立していたミャンマーに、経済協力と合わせて接近を図った形で、兵器は他にもイスラエル、北朝鮮、パキスタン、ポーランド、ロシア、シンガポール、ユーゴスラビアから輸入され、その内容も弾薬、軽火器、重携行火器だけではなく装甲車、大砲、対空兵器、ヘリコプター、戦闘機、地対空ミサイルなど多岐に渡った。これ以外にも国軍は情報戦とデジタル戦に深く関心を寄せて研究を重ね、国軍士官学校(DSA)にコンピューターの学位を設け、両者を学ばせるために将校を海外に派遣している。ただ外敵に侵略された場合を想定して、ゲリラ戦とトンネル戦といったアナクロな戦術にも力を入れている。2009年にはミャンマー各地に800ものトンネルを掘っている事実が独立紙によって暴露された。1995年、1997年、1998年には陸海空軍+USDAなどの補助部隊を動員した大規模な合同軍事演習が実施されている[38]。
80年代後半には、1962年のクーデター以降、激減していた欧米の名門士官学校への留学を復活させようという動きがあったが、それも1988年民主化運動の弾圧で頓挫。しかしそれでも国軍は、中国、ロシア、インド、パキスタン、シンガポール、マレーシア、ユーゴスラビアなどの国々に多数の将校を派遣して人材育成に力を注いでいた。また教育・訓練期間も多数設立・改編した[38]。
さらに国軍は軍人の福利厚生を図り、忠誠心を高めるために本格的にビジネスに参入。1990年にはミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)の前身・ミャンマー連邦経済持株会社 (UMEHL) を、1997年にはミャンマー経済会社(MEC)という国軍系企業を設立し、傘下に鉄鋼、セメント、大理石、砂糖、メタノール、石炭、ビール、貿易、金融など多数の企業を置いて莫大な利益を上げ始めた。これに加えてクローニーと呼ばれる企業コングロマリットが10以上存在し、国軍幹部と姻戚関係を結んだりして緊密な関係を築き、軍から許認可や受発注の便宜を受け、急成長し始めた[82]。
これらの企業群は国防予算とは別の国軍の貴重な収入源となると同時に退役軍人の出向先となり、国軍の重要な”利権”となった。すべての将校はMEHLやMECの株式から直接的・間接的に利益を得、家族を通じて非合法ビジネスからの利益も得ている。タンシュエの娘の結婚式はあまりにも豪華で国民の強い批判を浴び、現国軍総司令官・ミンアウンフラインはミャンマーでも有数の富豪と言われている[誰によって?]。それより地位の低い軍人たちは主に汚職や麻薬などの闇市場から利益を得ている。ネ・ウィン時代は許されなかったが、1988年民主化運動以降は、忠誠心維持の観点から役得として大目に見られるようになったのだという。ただ歴代国軍情報部は、将校以上の軍人の汚職の有罪証拠をすべて保持しており、権力闘争に敗れた際は大抵汚職の罪に問われることになり、それを嫌ってほとんどの人間が大人しくしていると言われている[38]。
名前 | 停戦合意締結時期 |
---|---|
ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA) | 1989年3月21日 |
ワ州連合軍(UWSA) | 1989年5月9日 |
民族民主同盟軍(NDAA) | 1989年5月9日 |
シャン州軍 (北)(SSA-N) | 1989年9月2日 |
カチン新民主軍(NDA-K) | 1989年12月15日 |
カチン防衛軍(KDA) | 1991年1月13日 |
パオ民族機構(PNO) | 1991年4月11日 |
パラウン州解放軍(PSLA) | 1991年4月21日 |
カヤン民族守備隊(KNG) | 1992年2月27日 |
カチン独立機構(KIO) | 1993年10月1日 |
カレンニー民族人民解放戦線(KNPLF) | 1994年5月9日 |
カヤン新領土党(KNLP) | 1994年7月26日 |
シャン州諸民族解放機構(SSNPLO) | 1994年10月9日 |
民主カレン仏教徒軍(DKBA) | 1994年12月 |
新モン州党(NMSP) | 1995年6月29日 |
シャン州民族軍(SSNA) | 1995年 |
モン・タイ軍(MTA) | 1996年1月2日 |
カレンニー民族防衛軍(KNDA) | 1996年 |
カレン和平軍(KPF) | 1997年2月24日 |
ラカイン州全民族連帯党(RSANRSP) | |
モン・メルギー軍(MMA) | 1997年 |
カレン民族同盟特別区グループ (KNUSRP) | 1997年 |
カレンニー民族進歩党(KNPP) | 2005年 |
シャン州軍(南)(SSA-S)第758旅団 | 2006年 |
カレン民族同盟/カレン民族解放軍平和評議会
(KPC) |
2007年 |
1978年に鄧小平がビルマ共産党への支援を大幅削減すると決定して以来、国軍は少数民族武装勢力のリーダーたちと個別に会って、ビルマ共産党と彼らを分断するために秘密裏に会談を重ねていた[84]。そしてコーカン兵の彭家声がビルマ共産党から独立したがっていると知るや、1989年、彼を焚きつけて反乱を起こさせた。これによりビルマ共産党は崩壊し、ワ州連合軍(UWSA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、民族民主同盟軍(NDAA)、カチン新民主軍(NDA-K)の4つの武装勢力に分裂し、ビルマ共産党幹部は中国雲南省に逃亡するに及んだ。ビルマ共産党内の反乱が起こると、キンニュンはすぐに各武装勢力を訪れ停戦合意を結んだ。彭家声のコーカン反乱軍との停戦を仲介したのは、コーカンの麻薬商人だったオリーブ・ヤンこと楊金秀、同じくコーカン出身の麻薬王・ロー・シンハン、そして8888年民主化運動の際ネ・ウィン宛に書簡を書いた、元国軍No.2のアウンジーだった。合意の内容は国軍と戦わず、他の少数民族武装勢力や民主派と協力しない代わりに、各勢力はそれぞれの地域の支配権を維持し、軍隊を保持し、あらゆるビジネスに従事することを許可されるというもので、1963年から1973年までにシャン州で実施されたKKY制度に酷似していた。ちなみに現在は、ワ州連合軍がビルマ共産党に代わって、各少数民族武装勢力の兵器の供給源になっているとされる[46]。
そしてビルマ共産党崩壊の前後から、国軍は1948年以来最大規模であり、100万人以上の国外難民(ミャンマー難民)が発生したとも言われる戦闘を各少数民族武装勢力にしかけ始めた[85]。①ビルマ共産党の崩壊により重要な兵器入手ルートを失ったこと②タイ共産党を殲滅したタイが、これまで国境警備に利用していたミャンマーの少数民族武装勢力を、むしろタイ・ミャンマーに跨る広域経済圏形成の障害と見なすようになり、タイと国境を接している武装勢力に対して政府と停戦合意を結ぶように圧力をかけ始めたこと③各武装勢力の支配地域の住民の間で長引く内戦に対する厭戦気分が極限まで高まっていたことなどから、各少数民族武装勢力は劣勢に立たされ、1989年から1994年の間にカレン民族同盟を除く、ほとんどの武装勢力との間に停戦合意が結ばれた[79]。1996年には麻薬王クン・サが政府に投降した。その後、彼はヤンゴンに住むことを許可され、仲間たちとともに運送会社、酒造業、不動産業、金や宝石の採掘、人脈の多いタイとの貿易など合法的なビジネスを営み、大富豪となった。反対勢力を国軍の支配地下で事業に注力させて失うものを持たせ、反抗する意思を削ぐというのが国軍のやり口だった[86]。なおジャーナリストの吉田鈴香が得た、キンニュン情報局長の下にあった和平チーム長の大佐の証言によれば、停戦合意の内容は、以下のようなものだったそうである[87]。
このように停戦合意、中国の国境開放、西側諸国の経済制裁があいまり、中国と国境を接しているカチン州やシャン州では、麻薬生産、違法伐採、違法採掘、カジノなどの違法産業が盛んとなり、1990年代から2000年代にかけて国軍・武装勢力双方で数十億ドルから数百億ドルにも上る莫大な利益を上げたと言われている[88]。
8888民主化運動の際のマウンマウン議長の「国民投票を行わずに複数政党制の総選挙を3か月以内に行う」という言葉を、「3か月以内」を除いて、国軍は守った。背景としては、民主的な選挙を行うことにより、ほぼ全面停止していた西側諸国からのODAを早急に再開させたいという思惑があった[89]。
クーデター直後の1988年9月26日から政党登録の受付を開始し、233の政党が登録した(最終的に候補者を立てたのは93党)。ビルマ社会主義計画党(BSPP)も国民統一党(NUP)と名称を変更して登録した。最有力政党は1988年民主化運動の際にリーダー候補に祭りあげられたアウンジーが議長、ティンウーが副議長、スーチーが書記長を務める国民民主連盟(NLD)であった。1989年に入るとスーチーは地方遊説を開始。各地で熱狂的に迎え入れられ、圧倒的人気を博した。しかし徐々に軍政批判を強めていき、カレン民族解放軍がシュリアム精油所とヤンゴン市庁舎で爆弾テロを行うと、スーチーとティンウーは自宅軟禁下に置かれた。1990年5月27日に総選挙が実施され、それは概ね公正で自由な選挙だったという国内外の評価を得たが、それが仇となってか、国民民主連盟が485議席中392議席を占めて圧勝する結果となり、国民統一党はわずか10議席しか獲れなかった(1990年ミャンマー総選挙)。この結果を受け、国軍は選挙結果を反故にして政権移譲時期の延期を図り、国家法秩序回復評議会主導の憲法会議が新憲法の草案を策定したあと、その草案を国家法秩序回復評議会に提出し、さらに国民投票によって採択された段階で新憲法にもとづく新政府がを樹立するという方針を発表した。そして反対する国民民主連盟の議員、活動家、僧侶を次々と逮捕した。逮捕を逃れた国民民主連盟の議員はカレン民族同盟の本拠地マナプロウに赴き、スーチーの従兄弟・セインウィンを暫定首相とするビルマ連邦国民政府(NCGUB)を樹立した。しかし国内外からの支持はほとんどなく、以後も実効性のある活動はできなかった[注釈 14]。
自宅軟禁中のスーチーに対して国軍は政治活動をしないことを条件に国外退去を勧告し続けていたが、スーチーはこれを拒否し、国内に留まって民主派を支援して国際世論を味方につける道を選んだ。この戦略は功を奏し、1991年10月、スーチーはノーベル平和賞を受賞。同年には「清潔で美しい国作戦(Operation Pyi Thaya)」によって、約25万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出する事件が生じており、両方あいまって国軍に対する国内外の批判は否応なしに高まっており、特に後者に関しては、欧米諸国だけではなく、マレーシアやインドネシアなどのASEANのムスリム諸国からも批判されたことに、国軍は危機感を深めた[90]。
1992年4月、かねてより精神の不調を囁かれていたソーマウンSLORC議長の辞任が発表され、当時国民の間ではほとんど無名だったタンシュエ(Than Shwe)が新議長に就任した。タンシュエは、早速、①制憲国民議会の8か月以内の開催②政治犯の釈放③スーチーの家族との面会許可④ロヒンギャ難民の早期帰還という柔軟路線に出た。1993年1月、制憲国民議会が開かれ、ウー・ヌ以下2700人の政治犯・刑事犯が釈放され、1992年5月スーチーと夫のマイケル・アリスとの面会が実現、1994年にはタンシュエ、キンニュン、スーチーによる3者会談も実現した。途中、両者の対話が途切れ、スーチー解放は絶望的と思われた時もあったが、1995年7月10日、スーチーは6年ぶりに解放された。
解放されたスーチーはNLD書記長に再就任し、毎週末自宅前で市民集会を開いたり、外国メディアと会見したりしていたが、再び自宅軟禁にならないように慎重な行動を取っていた。しかし1995年11月、会議の運営が非民主的であることを理由に国民民主連盟が制憲国民議会をボイコットすると、両者の関係は再び悪化。翌1996年5月27日、国家法秩序回復評議会の中止勧告を無視してNLD議員総会を開催すると、対立は決定的となり、国家法秩序回復評議会は新治安維持法、テレビ・ビデオ法、コンピューター科学開発法などの法律を制定して情報統制を強化した。9月には国民民主連盟は結党8周年を記念して全ビルマ集会を企画したが、当局は国民民主連盟党員・関係者800人を拘束してこれに対抗した。11月にはスーチーが乗った車が連邦団結発展協会のメンバー200人に襲撃されるという事件が発生した。さらに12月にはヤンゴンで8年ぶりに1500 - 2000人規模の学生デモが起こり、当局は大学を閉鎖してこれに対応した。結局、ヤンゴンの大学は2000年まで閉鎖されままになった。同月にはヤンゴン郊外の仏教寺院で爆弾テロが発生して4人死亡・18人負傷、翌1997年3月にはマンダレーで300人以上の僧侶がムスリムの商店を襲撃し、4月には軍幹部に送られてきた小包が爆破して幹部の娘が死亡するといった不穏な事件が立て続けに発生した[注釈 15]。
1997年、ミャンマーはASEANへの加盟を果たし、国家法秩序回復評議会は国家平和開発評議会(SPCD)に改編した。軍政が国際的に認知されつつあることに焦りを隠せないスーチーと国民民主連盟は、1998年5月総選挙記念集会を開き、①期限付き国会開催の要求②制憲国民議会の憲法草案を認めない③1990年総選挙の結果を無視した次の選挙を認めないなど13項目について採択し、タンシュエに書簡を送った。これは国家平和開発評議会が予定している民政移管プロセスを真っ向から否定するもので、これにより両者の対立は修復不可能となった。やがてスーチーは、当局の許可なく地方遊説を開始し、通行を阻止されると車内籠城して対抗。さらに9月には1990年総選挙にもとづく国会の代替機関として国家議員代表者委員会(CRPP)を結成し、1988年以降軍政によって制定された法律は国会で承認されるまですべて無効と宣言して国内外で軍政批判を呼び起こした。これに対して国軍は連邦団結発展協会、公務員、国有企業職員、教師、学生、メディアを総動員して反NLD、反スーチーキャンペーンを展開。毎日どこかで集会が行われ、日常風景になるほどだったという。さらに国民民主連盟関係者が次々と逮捕され、地方支部・事務所も多数閉鎖、党員・職員の離党も相次いでその数は1999年までに4万人にも上った。
2000年代に入っても国軍とスーチーの対立は続いた。スーチーは、タンシュエを選挙結果無視の罪で最高裁に提訴したり、再び無許可で地方遊説を行って車内籠城したり、国家議員代表者委員会(CRPP)を再び開催して、あらためて独自の憲法案を起草する決意を表明したりした。しかし、2000年9月21日、列車でマンダレーに向かおうとしてヤンゴン駅にいるところでスーチーは拘束され、再び自宅軟禁下に置かれた。19か月後の2002年5月6日に一旦解放されたが、翌2003年5月30日、サガイン管区・モンユワ近郊のディーペン村で、遊説中のスーチーが乗った車がUSDAのメンバーと思われる数千人の暴徒に襲撃される事件が発生し、政府発表によれば4人、目撃者の証言によれば70人の死者が出た。タンシュエ直々の指令だったと言われているが、事件後、スーチー以下100人以上の国民民主連盟党員の身柄が拘束され、結局またもスーチーは自宅軟禁下に置かれた。これにより国民民主連盟の活動は大きく停滞した[79]。
2002年3月7日、ネ・ウィンの義理の息子と孫3人がクーデターを計画した疑いで逮捕された。その後も関係者の逮捕者が相次いで最終的には100人以上となり、ネ・ウィンの愛娘・サンダーウィンやネ・ウィン自身も自宅軟禁下に置かれた。事件の3週間後、国軍記念日の式典でタンシュエは「ネ・ウィンの経済失政によって国民の不満が高まり、1988年民主化運動の際には国軍がクーデターを起こすしかなかった」という趣旨の演説を行った。同年12月5日、ネ・ウィンは自宅で死去。享年91歳。葬儀は近親者だけで営まれ、国軍幹部は誰も出席しなかった[91]。
さらにそのネ・ウィンの寵愛を受けて出世の階段を駆け上がり、前年、首相に就任したばかりのキンニュンが、2004年10月19日、国内視察から帰国したところを拘束され、自宅軟禁下に置かれた。キンニュンとその権力基盤である軍情報総局(OCMSF)の権力があまりにも強力になったため、タンシュエが仕かけたとも言われている。キンニュンが失脚したことにより、カレン民族同盟議長・ボーミャとキンニュンの間で口頭で結ばれていた停戦合意は無効となった[92]。
軍情報総局は解体され、約300人の上級将校を含む全国の3500人の諜報員が逮捕・更迭・左遷の憂き目に遭い、新たに国軍直轄の軍保安局長事務所(Office of the Chief of Military Security Affairs:通称サ・ヤ・パ)という組織が設立された。しかしゼロからの組織作りだったので当初は機能せず、2005年5月7日にはヤンゴンの繁華街3か所で同時多発爆弾テロが起こり、19人死亡・192人負傷という惨事を招いた。素人には簡単に作れない精巧な爆弾を正確に爆破させたことから、少数民族武装勢力との関わりが疑われたが、結局、犯人は捕まらなかった。MIティンウー失脚直後にラングーン事件が発生したことを彷彿させる事件だった[93]。
かくして、スーチー、ネ・ウィン、キンニュンを政治の表舞台から排除したことにより、タンシュエはその権力基盤を強固なものにした[94]。
2005年11月6日早朝、直前に転勤を告げられた公務員を満載したトラックがヤンゴンを発った。行き先はヤンゴンから車で7時間のところにある新首都ネピドー。省庁移転の噂はかねがねあったが、まさかの首都機能全移転で、その時まで国内外にまったく情報が漏れなかったことにも驚きの声が上がった。遷都の理由については様々な憶測が流れたが、ヤンゴンで民主化運動が再燃した場合でも公務員が参加できず、首都機能が停止することを防止できるとか、アメリカが海から侵攻してきた際、ヤンゴンであればすぐに占領されてしまうが、ネピドーであればゲリラ戦に持ちこめるとかの軍事戦略的意味があったとも言われている。2003年のイラク戦争でサダム・フセイン政権が崩壊する様を見て将軍たちが危機感を抱いていたのは想像に難くない。ちなみにネピドーには地下要塞が設けられており、その詳細は一部の国軍幹部しか知らないのだという[95]。
ネピドー遷都のための巨額な費用は天然ガスの輸出からの利益で賄われていた。21世紀に入ってから経済が低迷していたミャンマーだが、2000年ごろから始まった天然ガスの生産は、2004年には輸出収入の25%を占めるまでに成長し、ミャンマー最大の外貨獲得手段となった。そこから上がる利益は当然軍事費にも当てられ、2001年にはロシアから MIG-29/UBを12機購入するなど兵器も大規模化していき、これまで軽視してきた海軍・空軍の装備も充実していった。また北朝鮮の強力を得て核開発(ミャンマー連邦の大量破壊兵器)を行っているという噂が絶えず、2009年、ミャンマーからオーストラリアに亡命した軍人2人が北朝鮮の協力の下、SPCDが原子炉とプルトニウム抽出施設を建設中で、5年以内の核保有を目指しているとオーストラリアの新聞が報道したが、真相は不明である[93]。
2007年9月6日、ミャンマー中部の都市・パコックで僧侶200人によるデモが発生した。実はこの前の2月22日、ヤンゴンで物価の安定、教育費の値下げ、社会保障の改善のプラカードを掲げた20人規模の当時としては異例のデモがあったばかりで、背景には米と食料油の価格高騰があった。ちなみに1988年民主化運動以来、キャンパスが郊外に移されるなど(ヤンゴン大学は1996年から2013年まで大学院のみだった)、大学管理が強化されていたので、学生の姿はあまり見られなかった。この僧侶のデモに対して治安部隊は威嚇発砲して暴力を振るい、これに怒った僧侶たちが18日から全国でデモと覆鉢(軍人やその家族からの寄進を拒否して功徳を積む機会を奪う)を行い始めた。そしてデモ隊がヤンゴンのスーチー宅の前で読経をして、スーチーが立礼をしてそれに応える映像がネットや海外メディアで流れると、デモは一気に拡大。24日にはヤンゴンで10万人規模のデモが発生し、26日には治安部隊が出動してデモ隊と衝突する事態となった。治安部隊は僧侶や市民に警棒で殴りかかり、催涙ガスを発射、さらに僧院の建物を破壊して500人以上の僧侶を拘束した。翌27日には日本人ジャーナリスト・長井健司が射殺される事件も発生。が、結局、29日までにデモは鎮圧され、推定死者数は約200人と8888民主化運動の際よりもかなり少なかった。なお『ビルマVJ 消された革命』という映像作品で、このサフラン革命の一端を垣間見ることができる[96]。
この間も制憲国民会議は断続的に開かれ、新憲法制定の準備は着々と進んでいた。2008年4月27日にミャンマーを襲い、最終的に10万人以上の死者を出したサイクロン・ナルギスの被害も収まらない中、5月10日、新憲法案の是非を問う国民投票が行われ、投票率93.4%、賛成率92.4%で採択された。新憲法には①連邦議会の上下院議員の4分の1は軍人議員②大統領の要件として軍事に精通していること③国防相、治安・内務相、国境相の任命権は国軍司令官に④連邦分裂、国民の結束崩壊、主権喪失発生の危険性を有する非常事態の際には国軍総司令官に全権が委譲される⑤憲法改正の際には連邦議員の75%を超える賛成が必要といった条項があり、国軍の大幅な政治的関与が認められたものだった。なお憲法第59条(6)には、外国人の肉親がいる者は大統領になれないという旨の文言があり、これにより子供2人が外国籍であるスーチーが大統領になる道は絶たれた[97]。
また新憲法20条第1項には「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」と定められており、国軍はこの条項にもとづいて従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて各少数民族武装勢力に対して国軍傘下の国境警備隊(BGF)に編入するように要求した(のちに放棄)。しかし、カチン新民主軍(NDA-K)、カレンニー民族人民解放戦線、民主カレン仏教徒軍を除くほとんどの武装勢力がこれに反発、2009年8月8日、コーカン地区で警察が銃器修理工場を麻薬製造拠点の疑いで捜査したことをきっかけに、警察とミャンマー民族民主同盟軍との間で武力衝突が発生。戦闘は2週間続き、3万人の避難民が中国へ退避、ミャンマー民族民主同盟軍のリーダー・彭家声は娘婿がリーダーを務める 民族民主同盟軍の第4特区(モンラー)に逃亡した。政府はこれに乗じてミャンマー民族民主同盟軍の残党を国境警備隊に編入した。
そして2010年11月7日、新憲法にもとづいて30年ぶりに総選挙が行われ、連邦団結発展協会を改組した国軍系の連邦団結発展党(USDP)が、連邦議会の議席の約80%を占める388議席を獲得して圧勝した(国民民主連盟は選挙に参加せず、解党処分)(2010年ミャンマー総選挙)。その翌日の11月8日、国境警備隊編入を拒否した民主カレン仏教徒軍の分派・民主カレン慈善軍(DKBA)が、ミャワディの政府施設を攻撃し、2万数千人の住民がタイ側に逃れるという事件があったが、国軍はこれに反撃して数日以内に町の支配を回復した[98]。
名前 | 停戦合意締結時期 |
---|---|
ワ州連合軍(UWSA) | 2011年9月6日 |
民族民主同盟軍(NDAA) | 2011年9月7日 |
民主カレン慈善軍(DKBA) | 2011年11月3日 |
シャン州復興評議会(RCSS) | 2011年12月2日 |
チン民族戦線(CNF) | 2012年1月6日 |
カレン民族同盟(KNU) | 2012年1月12日 |
新モン州党(NMSP) | 2012年2月1日 |
カレン民族同盟/カレン民族解放軍平和評議会
(KPC) |
2012年2月7日 |
カレンニー民族進歩党(KNPP) | 2012年3月7日 |
アラカン解放党(ALP) | 2012年4月5日 |
ナガランド民族社会主義評議会カブラン派
(NSCN-K) |
2012年4月9日 |
パオ民族解放機構(PNLA) | 2012年8月25日 |
全ビルマ学生民主戦線(ABSDF) | 2013年8月5日 |
民政移管後、引退するつもりだったタンシュエは、大統領に野心的でない実直な人物という評のあったテインセインを、国軍総司令官に愛弟子で自分よりも20歳も若いミンアウンフラインを選んだ。2008年憲法の目的の1つは権力を大統領と国軍総司令官に分散し、それぞれに自らの地位を脅かさない人物を選び、ネ・ウィンの二の舞いならないことにあった[99]。
そして2011年3月30日、テインセイン政権が発足。国名も「ミャンマー連邦」から「ミャンマー連邦共和国」に変更された。ただ23年に及ぶ軍政に終止符を打ったとはいえ、連邦レベルの閣僚47人中37人が国軍出身(うち現役が5人)、管区・州の首相14人のうち13人が退役軍人、国・州・地方議会の議席の4分の1が現役軍人、連邦団結発展党の議員の大半は退役軍人とその支持者、上級公務員の80%が退役軍人であり、実質軍政と変わらないとして、当初、テインセイン政権に対する期待はあまり高くなかった。しかし同年7月19日、ネピドーのアウンサンの肖像画の掛かる部屋でテインセインとスーチーの会談が実現すると、一気に改革が加速。政治犯の釈放、表現・報道の自由拡大、国民民主連盟の政党再登録、住民の反対の声が強かった中国との共同事業・ミッソンダム建設計画の凍結、各種経済改革などそのスピードは国内外の関係者を驚かせるほどだった。スーチーも非常に協力的で、国際政治の場でテインセインの改革への協力を各国に呼びかけた[100]。
そしてテインセインは最重要課題である少数民族武装勢力との和平交渉にも乗り出した。当時、長年戦闘が続いていたカレン民族解放軍(KNLA)、シャン州軍南部(SSA-S)、カレンニー軍(KA)だけでなく、国境警備隊編入の件で民主カレン慈善軍(DKBA)、シャン州軍北部(SSA-N)、カチン独立軍(KIA)との戦闘も再開していた。交渉の窓口となったのは、アウンミン大統領府大臣が政府外部から識者を集めて設立したミャンマー平和センター(MPC)だった。スタッフの大半は若いミャンマー人で、イグレスという新興の政策シンクタンクのメンバーが多く、海外留学帰りや博士号取得者、果ては元民主化活動家までも採用し、タンミンウーも特別顧問の1人に名を連ねた[101]。
アウンミンは国境警備隊編入問題を棚上げし、国外で交渉したり、外国人オブザーバーを参加させたり(笹川陽平もこの一人[102])、これまでになかった柔軟な姿勢を見せ、その甲斐あって2011年から2012年の間に多くの少数民族武装勢力と停戦合意を結んだ。画期的だったのは、ミャンマー最古の少数民族武装勢力とも言われるカレン民族同盟と初めて停戦合意を結んだことである。しかしもう1つの老舗少数民族武装勢力・カチン独立軍との関係はむしろ悪化し、2011年6月、ついに17年にわたる停戦合意が破られ、国軍とカチン独立軍との間で戦闘が再開、双方に多大な犠牲者を出し、10万人以上の避難民が出る事態となった[103]。
こうした事態に対して、テインセインは各武装勢力と個別に停戦合意を結ぶのではなく、すべての武装勢力と包括的な全国停戦合意(NCA)を結ぶ方針に転換。当初は拒否していたカレン民族同盟、カチン独立軍など11の少数民族武装勢力が結集した統一民族連邦評議会(UNFC)との交渉に入った。90年代の停戦合意と違ったのは、件の停戦合意があくまでも軍事的なものだったのに対し、この全国停戦合意(NCA)は連邦制のあり方にまで踏みこんだより政治的なものだったということである。
2013年10月にはKIOのライザで一同が会する会議が開かれ、その後も交渉が続いて一旦まとまりかけたが、国軍総司令官・ミンアウンフラインが、国軍と各少数民族武装勢力が合流した連邦軍構想に難色を示して暗礁に乗り上げた。2014年11月には国軍がライザ近郊の戦闘幹部訓練施設に砲弾を撃ちこみ、23人が死亡・20人が負傷する事件が発生し、アラカン軍(AA)8人、タアン民族解放軍(TNLA)11人、チン民族軍(CNA)2人、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)2人と他の武装勢力の若者たちばかりが犠牲となった。2015年2月にはミャンマー民族民主同盟(MNDAA)が、国軍を急襲して2009年に奪われたラオカイを一時奪還。戦闘は4か月後に国軍優位で終息したが、この奪還作戦にはアラカン軍やタアン民族解放軍も参加しており、全国停戦合意の行方はますます不透明になっていった。統一民族連邦評議会内でも推進派と慎重派との間で内紛が生じていた。結局、全国停戦合意(NCA)は2015年10月15日、カレン民族同盟など8組織だけが署名して成立したが、8組織の兵力は合わせて1万人ほどであり、非署名のワ州連合軍(UWSA)の兵力2万人にも及ばなかった[104]。
一方、テインセイン政権下で様々な分野で自由化が進んだことにより、ミャンマーではストライキや土地争議が頻発するようになった。裏では88年世代の元民主化活動家が暗躍していたと言われている。ハイライトはサガイン管区のレッパダウン銅鉱山で、環境悪化を理由に住民だけではなく全国から活動家・僧侶が駆けつけて抗議運動に加わっていたが、2012年11月29日、治安部隊が催涙ガス、放水砲を使って強制排除に乗り出し、70人以上の負傷者が出た。事態打開のためにスーチーを委員長とする検討委員会が設けられたが、事業計画の透明性欠如や土地収用の補償の不十分性を指摘したものの、計画の続行自体は支持したので、多くの住民が彼女に失望した[103]。
もう1つ、言論の自由が広がり、ネットが自由化されたことにより、Facebookにはムスリムヘイトが溢れるようになった。この反イスラム運動は969運動と呼ばれ、その中心人物の僧侶・ウィラトゥはアメリカのタイム誌の表紙に「仏教徒テロリストの顔」として紹介されたことがあった。2012年5月にはラカイン族の少女が、ロヒンギャの男性に強姦されて殺害された事件をきっかけに両者の間に衝突が発生。10月までに150人以上が死亡、10万人以上の避難民が出る惨事となった(この事件をサウジアラビアで知ったパキスタン出身のロヒンギャ青年・アタウッラー・アブ・ジュヌニ(Ataullah abu Ammar Jununi)はのちにアラカン・ロヒンギャ救世軍《ARSA》を結成することになる)。またこの事件を機に、政府はロヒンギャの人権を侵害していると国際的批判の的になっていた国境地帯入国管理機構(ナサカ)を解散したが、この措置は、国軍がラカイン州北部の状況を把握できなくなり、2016年のアラカン・ロヒンギャ救世軍の最初の襲撃を防止できなかった原因と言われている[105]。この事件以降もラカイン州ではムスリムと仏教徒の衝突が頻発、ラカイン州以外でもメイティーラ、ヤンゴン近郊のオッカン、ラーショーで反ムスリムの暴動が発生し、多数の死傷者が出た。またこの宗教問題は海外にも飛び火し、2013年4月、インドネシア・スマトラ島で多数派のロヒンギャ難民が少数派の仏教徒難民を8人殺害する事件が発生、マレーシアでは仏教徒ミャンマー人を狙った襲撃事件が頻発した。2015年にはムスリムに対して差別的な民族保護法4法[106](改宗法、女性仏教徒の特別婚姻法、人口抑制保健法、一夫一婦法)が成立した[103][107]。
そして2015年11月18日に実施された総選挙でスーチー率いる国民民主連盟は、国政選挙で約80%の議席、地方選挙で4分の3の議席を獲得して圧勝、連邦団結発展党はともに惨敗した。ただミャンマーの総選挙は完全小選挙区制で行われるので、議席数にこそ差はついたものの、得票率は国民民主連盟が約60%、連邦団結発展党が約30%と連邦団結発展党も国民の3分の1という一定の支持を得ていた(2015年のミャンマーの総選挙)。国民民主連盟関係者・支持者が恐れたのは選挙結果を反故にした1990年選挙の再来だったが、選挙後、スーチーはテインセイン、ミンアウンフラインと相次いで会談。12月15日にはタンシュエとも会談して「彼女が将来の国のリーダーになることは間違いない[108]」 という発言を引き出し、円滑な政権移行への協力への約束を取りつけた[109]。
国民民主連盟政権は21人全員男性で、平均年齢は当時のスーチーの年齢の71歳を超えていた。論功行賞的な人事は避けられ、学者、医師、エンジニアなど多数の民間人が登用されたが、その多くが修士号・博士号持ちの学歴重視。ただ管区・州知事にはNLDの古参幹部が多数選ばれた。大統領に選ばれたのはティンチョーというスーチーの高校の1年後輩で、高名な詩人を父に持ち、ロンドン大学でコンピューター・サイエンスの学位を取り、財務官僚として働いたことがあり、当時はスーチーの母の名前を冠したドー・キンチー財団の幹部だった。人望は厚かったが、国民民主連盟の幹部でもなく、2015年の選挙にも出馬しておらず、国民の間ではほとんど無名だった。いずれにしろ2008年憲法により、国軍の大幅な国政関与が認められており、国民民主連盟政権としては慎重な政権運営が求められた。
しかし、スーチーは当初より国軍に敵対的態度を取った。新政権において、スーチーは外大臣、大統領府大臣、教育大臣、電力・エネルギー大臣などいくつもの大臣を兼任していたが、外国籍の子供がいるせいで憲法の規定により大統領にはなれなかった。ところがスーチーは、ここで国家顧問というポストを創設してその地位に就くという手に出たのである。これは憲法の規定を完全に骨抜きにする行為であり、民主主義を無視していると国内外から大きな批判を浴びた。連邦団結発展党の議員や軍人議員はもちろんこの案に反対したが、国民民主連盟が圧倒的多数を占める議会で賛成多数で可決。この国家顧問創設の入れ知恵をしたのは、国民民主連盟の法律顧問でムスリムのコーニーだったが、彼は2017年1月29日にヤンゴン国際空港の玄関を出たところを射殺された。元陸軍少佐の犯行が疑われているが、現在も逃亡中で真相は不明である[110]。さらに、国軍総司令官・ミンアウンフラインは国防と治安問題を扱う国防治安評議会の開催を再三要求したが、国軍派が過半を占める会議の構成を嫌ってか、スーチーは1度もこれに応じず、ミンアウンフラインとの関係は冷えきっていった[103]。
そんなスーチーだったが、ミャンマーの喫緊の課題は少数民族武装勢力との和解ということは理解していた。しかしスーチーは少数民族武装勢力との和平交渉に入るにあたって、テインセイン政権下で獅子奮迅の活躍をしたミャンマー平和センター(MPC)を解散させ、代わりに国家顧問府直轄の自らを長とする国民和解平和センター(NRPC)を設立。そしてその実質的な交渉役に彼女の主治医のティンミョーウィンを任命した。彼は8888民主化運動に関わった活動家で、自宅軟禁中のスーチーの連絡役であり、軍医の経験はあったが、政治経験は皆無だった。そしてスーチーは2016年から2020年にかけて計4回、21世紀パンロン会議を主催して、少数民族武装勢力との和平交渉を進めたが、結局、新モン州党(NMSP)とラフ民主連合(LDU)という小さな組織が停戦合意を結んだだけで、成果は乏しかった[111]。
これ以外にも、アラカン軍に対して強硬姿勢を取ったり(アラカン軍#成長)、モン州のモーラミャインと島を結ぶ橋をアウンサン将軍橋と名づけたり、チン州でアウンサン将軍像建設計画を持ち上げたり、カレンニー州で公園に設置されたアウンサン将軍像を取り囲んで撤去を求める住民に対して警察がゴム弾と催涙弾を撃ちこんで多数の負傷者を出す事件が発生したりと、国民民主連盟政権下で少数民族の人々の関係はむしろ悪化していった[112]。
ミャンマー最大の少数民族問題はロヒンギャである。スーチーは、2012年5月の反ムスリム暴動の際に「少数派への共感を持つべきだ」と発言しただけで、Facebookで大炎上した。ロヒンギャ擁護と批判されて以降、ロヒンギャ問題について積極的な発言せず、国内外から批判を浴びていた(彼女は自称の「ロヒンギャ」という言葉も蔑称の「ベンガリー」という言葉も使わず、「ラカイン州ムスリム」という言葉を使っていた)[112]。ロヒンギャ問題に本格的に取り組むべく、2016年8月、元国連事務総長・コフィー・アナンを長とするラカイン州諮問委員会を設置した。しかし同年10月19日、ラカイン州の国境警備隊の複数の監視所を何者かが襲撃し、警察官9名が殺害される事件が発生。この時、武装勢力は「ハルカ・アル・ヤキン」(信仰の運動)と名乗っており、サウジアラビア出身のムスリムがリーダーで、豊富な資金を持ち、外国で訓練を受けていたということしかわかっていなかった。
そしてラカイン州諮問委員会が最終報告書を提出した翌日の2017年8月25日、ラカイン州で約5000人の兵士が鉈や竹槍で武装化した住民を引き連れ、再び複数の警察署を襲撃し、数日間の戦闘で治安部隊に14人、公務員に1人、件の武装勢力に371人の死者が出る事件が発生した。武装勢力の正体は前年にも警察を襲撃したハルカ・アル・ヤキンで、今回はアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)と名乗っていた。襲撃直後、政府はアラカン・ロヒンギャ救世軍をテロ組織に認定し、ティンチョー大統領は事件が起きたラカイン州北部を軍事作戦地域に指定して、軍事作戦の遂行を許可した。これを受けて国軍はロヒンギャ住民の殺害や村々の放火を伴う激烈な掃討作戦を展開、約70万人と言われるロヒンギャ難民がバングラデシュに流出する事態を引き起こした。
この国軍の掃討作戦に対して、国際社会ではジェノサイドとの批判が高まったが、これを認めないスーチーに対する批判も高まり、ノーベル平和賞剥奪運動が巻き起こって、かつて彼女の勇気を称えたデズモンド・ツツ、マララ、U2のボノなどが絶交宣言し、アムネスティ・インターナショナルの良心の大使賞など数々の名誉が剥奪された。そして2019年11月11日、ミャンマーに対して起こされたジェノサイド規定違反のハーグ国際司法裁判所(ICJ)の場で、スーチーがあらためてジェノサイドを否定したことにより、彼女の国際的名声は完全に失墜したのである[107]。ただし、これとは逆にミャンマー国内では、ロヒンギャに嫌悪感を持つ多くの国民がスーチーと国軍を支持した[113][114]。同年9月から10月にかけて国軍総司令官のミンアウンフラインが「1942年の未完の仕事をやり遂げる」という発言を繰り返すと、彼のFacebookアカウントのフォロワーが激増した[115]。「1942年の未完の仕事」とは、イギリス軍側についたロヒンギャの部隊・Vフォースの攻撃によって2万人以上のラカイン族が殺害されたとされることに対する復讐のことである[116]。
派手な外交に隠れがちだったが、国民民主連盟政権は国軍の利権構造を破壊しにかかっていた。まずGADという地域住民の監視、土地の管理や徴税、住民登録、地域の苦情処理という業務を担当する行政組織を内務省管轄下から大統領直轄下に移動させた。これは国の隅々に張り巡らした、言わば国軍の血脈を奪う行為に等しく、国軍には絶対に受け入れられないことだった。また国民民主連盟政権は宝石法という法律を改正して取引の透明化を図り、国軍の利権に直接メスを入れ始めた。そして2020年には否決覚悟とはいえ、国軍の政治関与を大幅に削減する憲法改正案を議会に提出したのである[117]。
またスーチーは中国と蜜月関係を築き始めていた。1990年代から民政移管するまで中国がミャンマーの最大のパートナーだったものの、長年の確執から国軍の中国にたいする警戒心は相当なもので、テインセイン政権になって欧米からの経済支援が復活すると、徐々に中国と距離を置くようになり、雲南省とチャウピューを結ぶ鉄道・ 道路建設計画に反対したり、中国資本が入ったミッソンダム建設計画を住民の反対を汲み入れて白紙撤回したりした。しかし国民民主連盟政権になってから、中国との蜜月関係が復活。2020年1月にはネピドーでスーチーと習近平は運命共同体宣言をし、スーチーは「世界が終わるまで中国に足並みをそろえる以外にない[118]」とまで述べた。
この一連の動きが国軍を刺激したのは想像に難くない。タンシュエは2010年3月27日、軍政支配下最後の国軍の日の記念式典でこう述べていた。
「われわれ(軍)は必要とあればいつでも国政に関わる」
「選挙に参加する政党は、民主主義が成熟するまで自制、節度を示すべきだ」
「民主化の誤ったやり方は無秩序を招く」
「失敗すると、国と国民を危険にさらしてしまう」
「外国からの影響力に頼ることは絶対に避けねばならない」[117]
2020年11月8日に執行されたミャンマー連邦議会の総選挙では、与党・国民民主連盟(NLD)が前回・2015年の選挙を上回る396議席を獲得し、改選議席476議席のうち8割以上を占める結果となった[119]。敗北を喫した国軍と連邦団結発展党(USDP)は総選挙に不正があったとして抗議を行い、軍の支持者からは選挙の調査を求める声が挙がった[120]。
2021年2月1日未明、国軍はウィンミン大統領、アウンサンスーチー国家顧問、NLD幹部、NLD出身の地方政府トップら45人以上の身柄を拘束。ウィン・ミン大統領とアウンサンスーチー国家顧問は首都ネピドーにあるそれぞれの自宅に軟禁された[121][122]。
軍出身のミンスエ第一副大統領が大統領代行(暫定大統領)に就任し、憲法417条の規定に基づいて期限を1年間とする非常事態宣言の発出を命じる大統領令に署名し、国軍が政権を掌握。また、ミンアウンフライン国軍総司令官に立法、行政、司法の三権が委譲されミンアウンフラインは直ちに国家行政評議会を設立し、その長である国家行政評議会議長に就任した。[123]旧政権の閣僚24人は全員が解任され、新たに11人の閣僚が任命された。[121]
クーデターに反発した国民民主連盟所属の連邦議会議員らが主体となって独自の議会として連邦議会代表委員会(CRPH)を設立した。同委員会は国軍による統治を拒否して国民統一政府(NUG)と軍事組織である「国民防衛隊(PDF)」を設立し、少数民族の武装組織の一部と連携して国軍に対する武力による抵抗運動を開始した。
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ミャンマーには100以上の少数民族が存在するが各民族が各々に独自の武装勢力を結成している。ミャンマー政府からはひとくくりに民族武装組織 (ethnic armed organisations; EAOs) と呼ばれている。多くの勢力が分派と合併、再編を繰り返しており外部の人間が全容を把握することは困難である。 全てが反政府というわけではなく、組織同士あるいは組織内部での対立により政府側についた組織も存在する。
連邦政治交渉協議委員会 (FPNCC)
その他
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詳細は「国民防衛隊(PDF)」を参照。
人民民主戦線(People’s Democratic Front:PDF)(1951年 - 1955年)
反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)に対抗して結成された左翼政党の連帯組織。1951–1952年の下院選挙で19議席を獲得し、最大野党となったが[124]、1958年に人民同志党とアラカン人民解放党は政府に帰順し、革命ビルマ軍はビルマ共産党に合流。武装闘争においては何もなしえなかった[57]。
民主民族主義者統一戦線(Democratic Nationalities United Front:DNUF)(1956年 - 1958年)
1958年にモン人民戦線とパオ民族機構が政府に帰順して消滅[57]。
民族民主統一戦線(National Democratic United Front:NDUF)(1959年 - 1975年)
親共産主義同盟。 民族より階級を重視するビルマ共産党との意見の相違により解散[57]。
民族解放同盟(Nationalities Liberation Alliance:NLA)(1960年 - 1963年)
何もなしえず、1963年、KRC議長・ソー・ハンター・タムウェ(Saw Hunter Thamwe)が政府に逮捕され解散[57]。
統一民族戦線(United Nationalities Front:UNF)(1965年 - 1966年)
何もせずたった1年で解散。
民族統一戦線(Nationalities United Front:NUF )(1967年 - 1973年)
左派連合。1969年、左翼的すぎるという理由で新モン州党が脱退し、1973年に解散[57]。
革命民族同盟(Revolutionary Nationalities Alliance:RNA)(1973年 - 1975年)
穏健左派路線。1975年、民族民主戦線(National Democratic Front:NDF)に引き継がれる[57]。
民族民主戦線(National Democratic Front:NDF)(1975–1990年代半ば)
革命民族同盟(RNA)→連邦民族民主戦線(Federal National Democratic Front:FNDF)→民族民主戦線(NDF)とカレン民族同盟(KNU)のボーミャ議長が結成に尽力した組織。長年にわたりカレン民族同盟の本拠地マナプロウで定期会合を開き、この時点で唯一維持に成功した同盟組織。しかしビルマ共産党に協力するか否かで路線対立が露わになり、90年代に入って次々と加盟組織が政府と停戦合意を結ぶに及び、有名無実化した[57]。
ビルマ民主同盟(Democratic Alliance of Burma:DAB)(1988年 - ?)
1988年、民族民主戦線(NDF)のメンバーと民主派武装組織など21組織が結成。しかしここも加盟組織が政府と停戦合意を結ぶに及び、有名無実化[125]。
全民族人民民主戦線(All Nationalities People’s Democratic Front:ANPDF)(1989–?)
ビルマ共産党から支援を受けていた小規模な武装勢力がビルマ共産党崩壊後に結成した組織。民主愛国軍は1994年ごろに消滅し、他の武装勢力も政府と停戦合意を結んで消滅[57]。
ビルマ統一民族連邦評議会(United Nationalities Federal Council:UNFC)(2011–2019)
→「ビルマ統一民族連邦評議会」
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