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海外植民地を基盤としたポルトガルの黄金時代 ウィキペディアから
ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語: Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制の下で栄えた時期を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、既存の大国であったアステカ帝国やインカ帝国の、それぞれの中心地域であったメキシコおよびペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は、とくに「海上帝国」とは言わない(スペイン帝国)。
公用語 | ポルトガル語 | ||||||||||||||||||||||||||||
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国教 | カトリック[1][2] | ||||||||||||||||||||||||||||
首都 | リスボン リオデジャネイロ(1808年 - 1821年) | ||||||||||||||||||||||||||||
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現在 | アンゴラ アンティグア・バーブーダ バルバドス ブラジル カーボベルデ アメリカ合衆国 グレナダ ギニアビサウ 赤道ギニア モザンビーク ポルトガル サントメ・プリンシペ スリランカ 東ティモール マカオ シンガポール ウルグアイ インド |
先代 | 次代 |
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↓ | 1415年 - 1999年 | ↓ |
(国旗(1830年 - 1910年)) | (国章(1481年 - 1911年)) |
ポルトガルの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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世界史上における長命な帝国のひとつであり、1415年のセウタ占拠から1999年のポルトガル領マカオ返還に至るまで、ほぼ6世紀にわたって君臨した。16世紀初頭からは、南北アメリカやアフリカ、アジア、オセアニアなど世界中の様々な地域にその版図を広げ、拠点を築き上げた。
1488年にアフリカ大陸南端に到達したポルトガルは東洋の香料貿易独占とキリスト教布教を目的としてインド洋に進出、沿岸各地に拠点を築いてムスリムと戦い、インド洋の覇権を握った。このため、エジプトのマムルーク朝などイスラム勢力から香料を仕入れて欧州での供給を独占していたヴェネツィア共和国の経済は大打撃を蒙った。ポルトガルはさらにマレー半島における香料貿易の重要な中継地であったマラッカ占領以後、東南アジアや東アジアにまで貿易網を拡大し、世界的な交易システムを築き上げた。
しかし17世紀に入ると、新教国オランダやイギリスも七つの海に進出を始め、ポルトガルと競合するようになる。特にオランダはスペインに対する独立戦争を展開しており、当時スペインと同じ君主を戴いていたポルトガルのガレオン船を拿捕したり、マラッカなどのポルトガル植民地を占領して行った。日本の禁教と鎖国も新教国オランダの反ポルトガル陰謀の結果であると言えなくもない[3]。このため17世紀後半以後ポルトガルのアジア貿易は衰退したが、南米大陸ブラジルの植民に力を注ぎ、18世紀にはブラジルで金が盛んに産出されてポルトガルは再び黄金時代を迎えることになる。しかし、1703年にイギリスと結んだメシュエン条約は結果として金の流出を招き、ポルトガル本国はそれ程経済的な恩恵を得る事が出来なかった(非公式帝国)。
19世紀になるとブラジルの金生産も低迷し、ブラジル植民地自体が独立を達成してポルトガルから離れていく。ナポレオン戦争後はイギリス帝国が世界の海に覇権を唱え、ポルトガルに残されたのは旧時代の名残りともいえるアンゴラ、モザンビークなどのアフリカ植民地とインドのゴアとディウ、マカオとティモールなどだった。
これらの植民地も第二次世界大戦後、1960年代に独立戦争が勃発した(マカオの場合は一二・三事件による中国とポルトガルの取引で戦火を逃れた[4][5]が、インドの植民地は1961年12月にインド軍の武力侵攻により制圧された)。最終的に1974年のカーネーション革命をきっかけにしてポルトガルはこれらの植民地の独立を承認した。
ポルトガルの東インド貿易は、名目上は全てポルトガル王室の事業だったが、単独で人員と船を継続するのは人口と王室の財政規模から不可能だった。そのためイタリア系やドイツ系の金融援助を受けて進められた[6]。16世紀後半からは、ジェノヴァ共和国のサン・ジョルジョ銀行から融資を受けていた。リスク管理のために複数の人間が共同出資するコンパーニアや、高利の海上貸付であるレスポンデンシアが行われていた。ポルトガルはカトリック教国であり、教会法ではウスラによって高利が禁じられていた。このためカトリック教徒の間では、海上貸付は海上保険の名目で扱われた[7]。
当時のポルトガルの貿易は、主に4種類に分けられる。
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