ハリー・ラルストン・ブラックHarry Ralston "Bud" Black , 1957年6月30日 - )はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンマテオ郡サンマテオ出身のプロ野球監督、元プロ野球選手投手)。左投左打。

概要 コロラド・ロッキーズ 監督 #10, 基本情報 ...
バド・ブラック
Bud Black
コロラド・ロッキーズ 監督 #10
Thumb
2018年MLBオールスターゲームにて
(2018年7月16日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンマテオ郡サンマテオ
生年月日 (1957-06-30) 1957年6月30日(67歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1979年 MLBドラフト17巡目(全体417位)でシアトル・マリナーズから指名
初出場 1981年9月5日
最終出場 1995年7月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
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過去40年間で[要出典]現役時代に100勝以上あげた投手出身の監督は、ボブ・レモン(通算207勝)、ラリー・ダーカー(通算139勝)に次ぐ3人目である[1]

経歴

プロ入り前

南カリフォルニアで育ったブラックはワシントン州ローワー・コロンビア州立短期大学英語版在学中の1977年1月、1次ドラフト3巡目(全体61位)でサンフランシスコ・ジャイアンツから指名されるが契約はせず、さらに6月の2次ドラフト2巡目(全体44位)でニューヨーク・メッツから指名された時にも契約はしなかった。

プロ入りとマリナーズ時代

故郷カリフォルニアのサンディエゴ州立大学編入後の1979年MLBドラフト17巡目(全体417位)でシアトル・マリナーズからで指名され入団、プロとしてのキャリアをスタートさせる。この年は傘下のA-級ビリンガム・マリナーズ英語版、A級サンノゼ・ミッションズ英語版で19試合に登板、先発は2試合と中継ぎでの起用が主であった。1980年はA級サンノゼで32試合に登板、この年も先発は5試合であった。1981年はAA級リン・セイラーズで22試合に登板、先発・中継ぎ・クローザーと様々な起用をされた。9月5日セプテンバー・コールアップでメジャーに初昇格するが、敗戦処理で2試合に登板しただけであった。

ロイヤルズ時代

1982年3月2日、前年10月に行ったトレードの後日交換選手としてカンザスシティ・ロイヤルズに移籍する。開幕はメジャーで迎えたが、敗戦処理で1イニング投げた後に傘下のAAA級オマハ・ロイヤルズへ降格。しかしそこで4試合に先発し、防御率2.48・3完投・1完封の好成績で4月18日に昇格。先発・中継ぎで22試合に登板した。1983年は開幕当初はAAA級オマハであったが、5月25日に昇格後は先発ローテーションを守り初の2ケタ勝利をあげる。1984年は自己最多となる17勝をあげ、エースとして活躍、チームのア・リーグ西地区優勝に貢献した。先発陣の中では防御率、勝ち星、投球回、奪三振でチーム1位であった[2]1985年は15敗と負けが先行してしまったが、チームはア・リーグ西地区連続優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでは3試合に登板し、防御率1.69とトロント・ブルージェイズを完璧におさえ、チームは4勝3敗でリーグ優勝を果たす。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは2試合に登板し、防御率5.06と結果は残せなかったが、チームは4勝3敗で勝利し1969年の球団創設以来初のワールドシリーズ制覇となった。1986年は開幕から先発で打ち込まれたことと、ダン・クイゼンベリーの不調などもあり、中継ぎ・抑えでの登板が主となった。1987年は先発・中継ぎ、1988年は中継ぎで投げていた。

インディアンス時代

1988年6月3日パット・タブラー英語版とのトレードで、クリーブランド・インディアンスに移籍する。インディアンス移籍後も先発・中継ぎで投げていたが、防御率は5点台と低調な成績に終わった。1989年は1985年以来、久々に1年間を先発で過ごし二桁勝利をあげ、イニングもチーム最多と活躍した。

ブルージェイズ時代

1990年はシーズン終盤の9月16日トロント・ブルージェイズに3選手との交換でトレードされる。チームはボストン・レッドソックスを猛追していたが、2ゲーム差で優勝をのがした。

ジャイアンツ時代

1990年のシーズン終了後はFAとなっていたが、11月9日サンフランシスコ・ジャイアンツと4年総額1,000万ドルで契約した。だがこの契約には34歳という高齢や、それまでの通算成績が9年間で83勝82敗と平凡なものであること、ずっとローテーションを守れてもいなかったことで高額すぎるとの批判も多かった[3][4]。批判を払拭するかのように1991年1992年は二桁勝利をあげ面目は保ったが、その後は1993年から1994年にかけての怪我に悩まされ、登板機会は激減した。4年契約を満了してFAとなった。

現役引退後

1995年4月25日にインディアンスと契約する。ここでも調子は戻らず7月14日に引退した。

1996年1997年1999年はインディアンスのGM特別補佐として働き、1998年はインディアンス傘下のAAA級バッファロー・バイソンズで投手コーチをしていた[5]

11月24日アナハイム・エンゼルスの投手コーチに就任。2000年からメジャーでのコーチキャリアがスタートした。ジョン・ラッキーアービン・サンタナジェレッド・ウィーバーブレンダン・ドネリースコット・シールズフランシスコ・ロドリゲスらを育て上げ、2006年までの7年間で5回リーグ5位以内に入り、2002年にはワールドシリーズ制覇を成し遂げた投手陣を育成した手腕は、大いに評価された[5]

2006年オフにはオークランド・アスレチックス、ジャイアンツ、サンディエゴ・パドレスの監督候補として名が挙がっていたが、11月8日にパドレスの6人の候補者の中から選ばれ監督に就任することが発表された[6]。サンディエゴ州立大時代のチームメイト、殿堂入りの名選手でありパドレスの英雄でもあるトニー・グウィンも、この決定に歓迎するコメントを寄せた[6][7]

監督1年目として迎えた2007年のシーズンは最後まで混戦であったが、最終的には首位のアリゾナ・ダイヤモンドバックスと1.5ゲーム差のナ・リーグ西地区3位でシーズンを終えた。しかしチーム打率がリーグ16チーム中15位の.251という貧打の中、チーム防御率は1位の3.70、前年防御率4点台と不振であったジェイク・ピービーを復調させサイ・ヤング賞を受賞させるなど、1年目としては合格点を与えられる結果を残した。

2010年シーズンには一部では最下位に終わると予想していたが、投手陣と守備陣が大健闘し、久々の地区優勝もあると思われていたが終盤に失速し、ジャイアンツに追い抜かれ2位に終わるも、最後まで守り抜く野球が評価され、この年の最優秀監督賞を受賞した。

2015年6月15日、成績不振を理由にパドレスの監督を解任された[8]

2015年10月28日、2016年シーズンよりワシントン・ナショナルズの監督に就任する事が発表された[9]が、契約面で合意に至らず、新監督にはダスティ・ベイカーが就任した[10]

2016年11月7日、2017年シーズンよりコロラド・ロッキーズの新監督に就任することが発表された[11]

2017年シーズン、2010年を最後に勝率5割以上から遠ざかっていたロッキーズを勝率.537地区3位の成績で2009年以来8年振りのワイルドカードで球団史上4度目のポストシーズン進出に導く。

プレースタイル

現役時代は多彩な変化球で打者を翻弄する投球スタイルであった[2]

人物・エピソード

少年達が野球をプレー中に怪我をしないための、正しい投球法を教える活動にも参加している[12][13]

詳細情報

年度別投手成績

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W
H
I
P
1981 SEA 20000000------71.020310010000.005.00
1982 KC 2214000460--.40038688.192103463404748454.581.43
1983 24243001070--.588672161.1159194312584075683.791.25
1984 353581217120--.5861045257.02262264241402299893.121.13
1985 333352210150--.400885205.221617594812291111994.331.34
1986 5640005109--.333503121.0100144357682249433.201.18
1987 2918000861--.571520122.1126163525616063493.601.32
1988 170000210--.6679822.02321120190212124.911.55
CLE 167000231--.40026059.05962314445435335.031.39
'88計 337000441--.50035881.08283434635647455.001.43
1989 333263212110--.522912222.12131452018813595833.361.19
1990 292952111100--.524796191.01711758141036179753.531.20
TOR 32000210--.6676115.2102301300774.020.83
'90計 323152113110--.542857206.21811961151066186823.571.12
1991 SF 343433012160--.429893214.120125718410466104953.991.27
1992 282821010120--.455749177.01782359111823788783.971.34
1993 1616000820--.80039493.289133322450444373.561.30
1994 1010000420--.66722754.15091613283131274.471.21
1995 CLE 1110000420--.66721947.16381620341142366.851.67
MLB:15年 3982963212012111611--.51186272053.119782176234949103965439828763.841.27
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年度別守備成績

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投手(P)












1981 SEA 201001.000
1982 KC 2261211.947
1983 2473215.975
1984 35135122.970
1985 3363040.900
1986 56321011.000
1987 29419001.000
1988 1701001.000
CLE 16511001.000
'88計 33512001.000
1989 33133323.958
1990 2972712.971
TOR 306001.000
'90計 3273312.976
1991 SF 341438041.000
1992 28537041.000
1993 1632222.926
1994 1037011.000
1995 CLE 1108001.000
MLB 398893561325.972
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年度別監督成績 (MLB)

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ポストシーズン
勝敗
2007 SD NL 西 501638974.5463 / 5
2008 511626399.3895 / 5
2009 521627587.4634 / 5
2010 531629072.5562 / 5
2011 541627191.4385 / 5
2012 551627686.4694 / 5
2013 561627686.4693 / 5
2014 571627785.4753 / 5
2015 58653233.4923 / 5途中解任
2017 COL 601628775.5373 / 5NLWC敗退0勝1敗
2018 611639172.5582 / 5NLDS敗退1勝3敗
2019 621627191.4384 / 5
2020 63602634.4334 / 5
2021 641617487.4604 / 5
2022 651626894.4205 / 5
通算:15年 223010651165.478-1勝4敗
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  • 2022年度シーズン終了時
  • 太字は最優秀監督賞受賞

背番号

  • 36(1981年)
  • 40(1982年 - 1989年、1991年 - 1995年)
  • 35(1990年)
  • 24(2000年 - 2006年)
  • 20(2007年 - 2015年)
  • 10(2017年 - )

脚注

関連項目

外部リンク

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