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ハートフォード侯爵(英語: Marquess of Hertford)は、イギリスの侯爵位。
ハートフォード侯爵(第2期) | |
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Arms:Quarterly: 1st and 4th, Sable on a Bend cotised Argent a Rose Gules between two Annulets of the first (Conway); 2nd and 3rd, quarterly: 1st and 4th, Or on a Pile Gules between six Fleurs-de-lis Azure three Lions of England (being the Coat of Augmentation granted by King Henry VIII on his marriage with Lady Jane Seymour); 2nd and 3rd, Gules two Wings joined in lure the tips downwards Or (Seymour) Crests:1st: the Bust of a Moor in profile couped at the shoulders proper and wreathed about the temples Argent and Azure (Conway); 2nd: out of a Ducal Coronet Or a Phoenix of the last issuing from flames proper (Seymour) Supporters:On either side a Blackamoor wreathed about the temples Or and Sable habited in short golden garments and in buskins gold adorned about their waists with green and red feathers each holding in his exterior hand a Shield Azure garnished Or the dexter charged with a Sun in Splendour gold and the sinister with a Crescent Argent
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創設時期 | 1793年7月5日 |
創設者 | ジョージ3世 |
貴族 | グレートブリテン貴族 |
初代 | 初代侯フランシス・シーモア=コンウェイ |
現所有者 | 9代侯ヘンリー・シーモア |
相続人 | ヤーマス伯ウィリアム・シーモア |
付随称号 | 下記を参照。 |
現況 | 存続 |
邸宅 | ラグリー・ホール |
モットー | Fide et Amore (By Faith and Love) |
過去に二回創設されており、現存するハートフォード侯爵位はサマセット公爵シーモア家の分流である初代ハートフォード伯爵フランシス・シーモア=コンウェイが1793年にグレートブリテン貴族爵位として叙されたのに始まる。本稿では前身のハートフォード伯爵位についても触れる。
ハートフォード伯爵位の最初の創設は、1138年頃にギルバート・ド・クレア(-1153)がイングランド貴族として叙されたものである。4代ハートフォード伯ギルバート・ド・クレア(?-1230)は、1217年に伯父から5代グロスター伯爵を継承しており、以降ハートフォード伯爵位はグロスター伯爵位と一緒に継承されたが、7代ハートフォード伯・8代グロスター伯ギルバート・ド・クレアが1314年6月24日にバノックバーンの戦いで戦死した際に後継者が絶えて廃絶した[1]。
ついでヘンリー8世の三番目の王妃ジェーン・シーモアの兄にあたるエドワード・シーモア (1506–1552) が、1537年10月18日に2期目のハートフォード伯爵位(イングランド貴族)に叙せられた。彼は1547年1月に即位した甥の幼王エドワード6世の摂政として権勢をふるい、1547年2月16日にはサマセット公爵に叙せられた。しかし政敵の初代ノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリーとの政争に敗れ、1552年1月22日に大逆罪で処刑され、爵位は剥奪された[2][3]。
初代サマセット公の息子であるエドワード・シーモア (1539–1621) が1559年1月13日に新規にハートフォード伯爵に叙されたのが3期目の創設である[4]。
その孫である2代ハートフォード伯ウィリアム・シーモア (1587–1660) は、1640年6月3日にハートフォード侯爵(イングランド貴族)に叙せられ、さらに1660年9月13日には曾祖父の爵位サマセット公爵位の復権を認められている[3]。
しかしこの第1期のハートフォード侯爵位は4代サマセット公ジョン・シーモア (1646以前-1675)(3代ハートフォード侯・4代ハートフォード伯)が死去した際に継承者が絶えて廃絶した。ハートフォード伯位の方も7代サマセット公・7代ハートフォード伯アルジャーノン・シーモア (1684–1750) が死去した際に継承者がなく廃絶している(サマセット公爵位は初代公爵に遡っての分流である第6代準男爵エドワード・シーモアに継承された)[3]。
4代準男爵エドワード・シーモア(8代サマセット公を継承する6代準男爵の祖父)が後妻レティシア・ポパムとの間に儲けた次男フランシス・シーモア (1679–1732) は、1699年に母の叔母の嫁ぎ先であるコンウェイ子爵(コンウェイ伯爵)コンウェイ家の家名を加えて「シーモア=コンウェイ (Seymour-Conway) 」と改名した。そして庶民院議員を務めた後の1703年3月17日にラグリーのコンウェイ男爵(イングランド貴族)、1712年10月16日にコンウェイ=キルルター男爵(アイルランド貴族)に叙せられた[5][6]。
その息子である第2代コンウェイ男爵フランシス・シーモア=コンウェイ (1718–1794) は、駐フランス大使やアイルランド総督などを務め、1750年8月3日にハートフォード伯爵とビーチャム子爵、1793年7月5日にハートフォード侯爵とヤーマス伯爵に叙せられた(すべてグレートブリテン貴族)[7][8]。これによりハートフォード侯爵家が生まれ、以降彼の男系男子によって継承されていく[7]。
初代侯の息子である2代侯フランシス (1743–1822) は、1807年に勅許を得て後妻の家名を加えて「イングラム=シーモア=コンウェイ (Ingram-Seymour-Conway) 」に改姓している。しかしその息子である3代侯フランシス(1777–1842) は改姓していない[7][9]。
3代候の息子である4代侯リチャード(1800–1870) には子供が非嫡出子リチャード・ウォレスしかなく、爵位を継承させられなかった(リチャード・ウォレスは新規で準男爵に叙せられている)[7][10]。しかし4代侯は集めた美術品の多くをこの非嫡出子に遺しており、これらはウォレス・コレクションと呼ばれた[7]。
一方ハートフォード侯爵位は初代侯にさかのぼっての分流であり、コンウェイを家名にしていないフランシス・シーモア(1812–1884) に継承された[7]。
その孫である7代侯ジョージ(1871–1940) はエドワード・シーモア(1860-1931) が1923年に第16代サマセット公爵位を継承した際に、エドワードの曽祖父とその妻は正規の結婚関係ではなく、したがってエドワードは庶子の子孫にあたるのでサマセット公爵位の継承権がなく、公爵位を継ぐべきは自分であると主張した。この論争と調査は長く続き、貴族院にも持ち込まれたが、2年後にハートフォード侯の主張は退けられ、エドワードの16代サマセット公爵位継承が確定している[11]。
2016年現在の当主はその孫である9代侯ヘンリー・シーモア(1958-)である[7]。
本邸はウォリックシャー・オルスターのラグリー・ホール。家訓は「信頼と愛によって (Fide et Amore) 」[7]
現当主の第9代ハートフォード侯爵ヘンリー・シーモアは以下の爵位を保有している[7]。
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