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アイルランド貴族(英: Peerage of Ireland)は、アイルランド卿またはアイルランド王としてのイギリス君主によって叙された貴族の総称。アイルランド貴族の創設は19世紀末で終わった。アイルランド貴族は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵からなる。イギリス君主は、現在はアイルランド共和国の中にある土地から派生した爵位を含む、アイルランド貴族の管轄権を行使し続けている[1]。
中世以来続くアイルランド貴族の称号はほんの一握りである。アイルランド貴族は1800年までアイルランド貴族院に議席を持ち、1800年合同法でアイルランド議会が廃されると、代わりに28名の貴族代表議員を選出して、ウェストミンスターの貴族院へ送るようになった。
合同以前にも以後にも、アイルランド貴族は、イングランド/グレートブリテン貴族院に自動的に議席を与えない爵位を創設する手段として用いられた。すなわち、アイルランド貴族に叙された人物(一例として初代クライヴ男爵ロバート・クライヴ)は引き続きロンドンの庶民院議員を務めることができる。その結果として、より後の時代に叙爵されたアイルランド貴族はアイルランドとのつながりが希薄な人物が多く、爵位名がグレートブリテン島の地名に由来する例すら散見されるようになった(例としてメクスバラ伯爵とランファーリー伯爵:メクスバラはイングランドの、ランファーリーはスコットランドの地名である)。
1800年の合同条約は新設されるアイルランド貴族爵位の数を制限したものの、アイルランド貴族爵位は19世紀末まで創設され続けた。この制限とは、アイルランド貴族の人数が100人以下(合同時点でグレートブリテン貴族爵位を所有する人物、合同以降に連合王国貴族に叙された人物を除く)になるまで、新しい貴族が創設されるには3つのアイルランド貴族爵位が廃絶することが必要である。そして、合同法の交渉の一環として、1797年よりアイルランド貴族の創設が相次ぎ、そのほとんどは既存の貴族の昇叙であった。この状況は1801年1月第1週で終わったが、合同法の制限はその最後のわずかな貴族には適用されなかった。19世紀におけるアイルランド貴族の創設は、1856年まで合同法が許可している限りの人数が叙爵されたが、それ以降は失速し、1857年から1900年までは4人しかなく、20世紀と21世紀には0人だった。最後に創設されたアイルランド貴族爵位は1898年のカーゾン・オブ・ケドルストン男爵である。
1800年までに創設されたアイルランド貴族は、貴族の序列においてイングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族より後、連合王国貴族より先である。1801年以降に創設されたアイルランド貴族は、創設年によって連合王国貴族との間の序列が決定される。たとえば、アバコーン公爵(1868年創設のアイルランド貴族爵ウイ)は連合王国貴族のサザーランド公爵(1833年創設)とウェストミンスター公爵(1874年創設)の間となる。
アイルランド貴族代表議員が亡くなると、アイルランド貴族は会合を開いて後任を選出した。しかしこの会合を開くために必要な役職は、アイルランド自由国の設立とともに廃止された。その時点での貴族代表議員は貴族院に引き続き議席を持つが、現職議員が死去しても後任が選出されることはなくなった。最後のアイルランド貴族代表議員である第4代キルモリー伯爵フランシス・ニーダムが1961年に死去すると、貴族院にアイルランド貴族代表議員はいなくなった。アイルランド貴族が貴族代表議員を選出する権利は1971年制定法廃止法で正式に廃止された。
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