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楽劇 ウィキペディアから
『トリスタンとイゾルデ』(Tristan und Isolde)は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇。台本も作曲者自身による。
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Wagner: Tristan und Isolde, WWV 90 - ビルギット・ニルソン(イゾルデ)、ヴォルフガング・ヴィントガッセン(トリスタン)、クリスタ・ルートヴィヒ(ブランゲーネ)、マルッティ・タルヴェラ(マルケ王)、エバーハルト・ヴェヒター(クルヴェナール)ほか、カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団による演奏、Universal Music Group提供のYouTubeアートトラック。 |
全3幕からなり、1857年から1859年にかけて作曲された。一般に「楽劇 (Musik Drama)」と呼ばれているが、ワーグナー自身は総譜及びピアノ譜に単に「3幕の劇進行 (Handlung)」としている。1865年6月10日、ミュンヘンのバイエルン宮廷歌劇場において、ハンス・フォン・ビューローの指揮で初演された。演奏時間は約3時間55分(第1幕80分、第2幕80分、第3幕75分)[1]。
物語は、ケルトに起源を持つと考えられている古代トリスタン伝説(トリスタンとイゾルデを参照)によっており、直接的にはゴットフリート・フォン・シュトラースブルク(1170年頃 - 1210年)の叙事詩を土台として用いている。
ワーグナー自身が「あらゆる夢の中で最も麗しい夢への記念碑」(下記#作曲の経緯参照)と述べているように、この作品は愛の究極的な賛美であるとともに、その一方で、感情的な体験を超えて形而上的な救済を見いだそうとするものともなっている。作品全体に浸透した不協和音の解放によって『トリスタンとイゾルデ』は、ヨーロッパ音楽史上の里程標と見なされている。また、この作品の極限的な感情表現は、あらゆる分野にわたって何世代もの芸術家に圧倒的な影響を及ぼすものとなった[2]。
第1幕への前奏曲と第3幕終結部(イゾルデの「愛の死」)は、ワーグナーが全曲の初演に先立って演奏会形式で発表したことにちなみ、現在でも独立して演奏会で演奏される。
1849年のドレスデン蜂起に失敗したワーグナーは、政治犯として指名手配され、スイスに逃れた。そこでワーグナーのパトロンとなったのがオットー・ヴェーゼンドンク(1815年 - 1896年)である。ヴェーゼンドンクはチューリッヒ近郊の自宅に隣接する家をワーグナーに提供し、1857年からワーグナーは妻ミンナとここに住んだ。
ワーグナーの自伝『わが生涯』によると、彼がトリスタン伝説に基づくオペラ作品を着想したのは1854年の秋である。1854年12月16日付フランツ・リストに宛てた手紙に、ワーグナーは次のように書いた。
「自分はこれまでに一度も愛の幸福を味わったことがないので、あらゆる夢の中でも最も美しいこの主題のために一つの記念碑を打ち立て、そこで愛の耽溺のきわみを表現したいと思ったのです。こうして『トリスタンとイゾルデ』の構想を得ました。」[3]
残っているスケッチで最も古いものには1856年12月19日の日付があり、この時点でワーグナーは『ニーベルングの指環』四部作のうち、『ジークフリート』第1幕の作曲中であった。ひきつづいてワーグナーは『ジークフリート』第2幕にとりかかったが、そのオーケストラ・スケッチに「トリスタン決定ずみ」とメモ書きしており、翌1857年8月に作曲を中断する[4]。中断の理由は、一連の大作の上演のメドが立たず、もっと一般受けのする「小ぶりの作品」を書く必要があると考えたことによる(ジークフリート (楽劇)#中断の事情も参照のこと)。
また、このころからワーグナーとヴェーゼンドンクの妻マティルデ(1828年-1902年)との恋愛関係が始まり、『トリスタンとイゾルデ』は二人の関係を理想化する内容ともなっていった。同時期に書かれた『ヴェーゼンドンク歌曲集』はマティルデ・ヴェーゼンドンクの詩によるもので、5曲のうち「夢」と「温室にて」には「トリスタンへの習作」と副題が付けられ、それぞれ「愛の二重唱」(第2幕)、第3幕への前奏曲の旋律に転用された。
『ジークフリート』の中断以降、ワーグナーは1857年8月20日に『トリスタンとイゾルデ』の散文による筋書きに取りかかり、韻文による台本完成は1857年9月18日である。この台本はマティルデに捧げられた。作曲は10月1日から取りかかり、第1幕が1858年4月3日チューリヒで、第2幕が1859年3月18日ヴェネツィアで、第3幕が1859年8月6日にルツェルンでそれぞれ完成した[5]。
1858年1月13日に第1幕のオーケストラ・スケッチを終えたワーグナーは、スケッチの末尾に「このような作曲は、いまだかつてなかった」と書いている[6]。翌1859年、第2幕の完成後にはマティルデ・ヴェーゼンドンクに宛てた手紙で「私の芸術の最高峰」と述べ(#「移行の技法」を参照)、同年の全曲完成後には、「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだという[7]。後にこの作品を初演することになるハンス・フォン・ビューローは、「音楽新報」編集長のフランツ・ブレンデルに宛てた書簡(1859年)で次のように述べた。
「私はあなたに、このオペラがこれまでの音楽全般の頂点に位置しているということを断言いたします。」[8]
なお、第2幕以降がチューリヒで作曲されなかったのは、第1幕完成直後にワーグナーとマティルデの関係が発覚したことによる。1858年4月7日、ワーグナーの妻ミンナは、ワーグナーがマティルデに宛てた秘密の手紙を手に入れた。オットー・ヴェーゼンドンクはこれを静観し、マティルデもまた自分の家庭を破壊することは望まなかったことから、ワーグナー夫妻がチューリヒを出ていくことになったのである。8月にワーグナーはヴェネツィアに移り、ミンナはひとりドレスデンに去った。ワーグナーのヴェネツィア滞在は1859年3月28日までであり、滞在費用はひきつづきオットー・ヴェーゼンドンクが負担していた[9]。
1865年6月10日、ミュンヘン、バイエルン宮廷歌劇場。
「作曲の経緯」で述べたように、「小ぶりの作品」のつもりが結果的に到底手軽に演じられるものではなくなったため、『トリスタンとイゾルデ』の上演機会はなかなか訪れなかった。1860年、ワーグナーは『タンホイザー』のパリ初演のためにフランスに滞在し、このとき『トリスタンとイゾルデ』上演の感触を探ろうとして、パリの演奏会で第1幕への前奏曲を取り上げた[11]。しかし、この計画は失敗する。例えば、エクトル・ベルリオーズは前奏曲について、次のように述べた。「この作曲家がこれで何をしようとしていたのか、いまだにほんの少しでさえもわからないということを、私は告白せねばなりません」[12]。ちなみに、同年初夏にはワーグナー信奉者であったヨーゼフ・シュトラウスもウィーンで『トリスタンとイゾルデ』の一部を演奏している[13]。
翌1861年、ワーグナーはバーデン大公国のフリードリヒ1世に謁見して上演の可能性を打診した。バーデン公国の首都カールスルーエの劇場は、ワーグナーのドレスデン時代から旧知の間柄であるエドゥアルト・ドゥヴリアン(俳優・演出家。デフリーントとも)が支配人をしていたからである。しかし、カールスルーエには主役を演じる歌手がおらず、ワーグナーは歌手を探すためにウィーンに向かう。
ウィーンでは歌手は見つかったものの、ウィーン以外に歌手を出すことを劇場が渋ったため、今度はウィーンでの上演をめざすこととなり、ワーグナーはいったんウィーンに居を構えた。ところが、その後もトリスタン役の歌手が自信喪失したり、イゾルデ役に人間関係のトラブルが発生、ワーグナー自身も持ち前の浪費癖から借金を重ねてウィーンにいられなくなり、計77回ものリハーサルを重ねながら、上演は無期延期となってしまう。
しかし、1864年5月、バイエルン王国のルートヴィヒ2世との出会いによって、ワーグナーに援助の手が差し伸べられ、ミュンヘンでの上演計画が前進する。なお、このときも当初は1865年5月15日を初演予定日としながら、イゾルデ役のマルヴィーネの声が出なくなったために延期となり、一ヶ月後の6月10日にようやく初演が実現した。全曲完成から6年後のことである。
ミュンヘン初演では3回の上演が行われ、評判は上々だった。ただし、バイエルン王がワーグナーに莫大な資金を提供したことを快く思わない地元の新聞は酷評した。また、初演を指揮したハンス・フォン・ビューローの妻でフランツ・リストの娘コジマはワーグナーとこのころすでに実質的に夫婦の関係となっており、初演に先立つ4月には、ワーグナーとコジマの最初の子供、イゾルデが生まれていた。
のちにワーグナーの名声が高まるとともに、『トリスタンとイゾルデ』の評判も各地に伝わり、1876年にベルリン、1882年ロンドン、1883年ウィーン、1886年ニューヨークと世界の主要都市で上演され、いずれも大成功を収めた[14]。バイロイト音楽祭において『トリスタンとイゾルデ』が初めて上演されたのは1886年、ワーグナーが没して3年後のことである[15]。
日本初演は1963年10月で、日生劇場のこけら落としに招聘されたベルリン・ドイツ・オペラによる[16]。指揮はロリン・マゼール、演出と装置はヴィーラント・ワーグナー。
この楽器編成には、ワーグナーが作曲を思い立ったときの状況―1857年に『ニーベルングの指環』を中断し、上演しやすい「小ぶりな作品」を書こうとした―が現れている。『ニーベルングの指環』と異なり、木管は『ローエングリン』同様の3管編成に縮小され、弦楽の人数も指定していない。しかし、金管のピアニッシモの響きは後の『パルジファル』の先触れともいえるもので、低弦ことにヴィオラの効果的用法、ハープやトライアングル、シンバルといった楽器の扱いなど、「手段の節約」による「表現の深化」が図られた[18]。
第3幕の船の到着を告げる牧人の笛の音は舞台上のコーラングレで表されるが、スコアの注釈によるとスイスのアルペンホルンのような木製の楽器を使うことが望ましいとされていた。本物のアルペンホルンを使うのは現実的ではないので、この箇所だけのためにトリスタン・シャルマイというダブルリード楽器[19]、あるいはホルツトランペット (Holztrompete) という1本ピストンの木製トランペットが作成された[20]。しかし珍しすぎる楽器のため、通常はコーラングレで演奏される[21]。
全3幕からなり、第1幕は5場、第2幕は3場、第3幕は3場で構成される。各幕にはそれぞれ前奏曲がある。各場は管弦楽の間奏によって切れ目なく演奏される。
トリスタンとイゾルデの物語は、10世紀末にケルト伝説から生まれたと考えられている。その集大成ともいえるのが、ゴットフリート・フォン・シュトラスブルクの叙事詩であり、1210年ごろの成立と見られる。このほかダンテの『神曲』地獄篇(第5歌)にトリスタンとイゾルデが登場し、ニュルンベルクの靴匠詩人ハンス・ザックス(1494年-1576年)にも『トリストラン殿と美しき王妃イゾルデ』と題する戯曲があるなど、トリスタンの題材は中世において、すでに知られていた。
19世紀に入ると、アウグスト・フォン・プラーテン(1796年-1835年)がトリスタン劇を構想した。これは完成しなかったが、プラーテンは「トリスタン」と題するソネット(1834年)を残しており、「美しきものをその眼で視た人はすでに死の手に委ねられてあり……」という冒頭の2行は、ワーグナーの楽劇の思想内容に近く、ワーグナーはこの詩を知っていたと考えられる。
オペラ作品としては、「トリスタンとイゾルデ」にまつわる媚薬がモチーフとなったガエターノ・ドニゼッティ作曲の歌劇『愛の妙薬』(1832年)が1841年にドレスデンで上演されており、その後も繰り返し上演されたこの作品を、1843年からドレスデンの宮廷楽長となったワーグナーは指揮したと推定されている。1842年にワーグナーが知り合った作家ユリウス・モーゼン(1803年-1867年)にも『マルケ王とイゾルデ』の詩があり、この作品には「宿命の媚薬」のアイデアが含まれていた[25]。
1846年にはロベルト・シューマンが「トリスタンとイゾルデ」のオペラ化を構想したが、完成しなかった。その台本は詩人ロベルト・ライニックによる5幕ものであった。このころワーグナーはシューマンと交流があり、オペラ化の構想を聞き知った可能性がある。シューマンの弟子でワーグナーとも親しかったカール・リッター(1830年-1891年)もトリスタンのための戯曲(紛失)を書いており、作曲の契機のひとつとなったと見られる。ワーグナーは自伝『わが生涯』で、「リッターはこの物語の活気にあふれた場面を重視しているが、私の方は物語の深い悲劇性にたちまち引きつけられた」と述べている[26][27]。
約20,000行にわたる長大なシュトラスブルクの叙事詩には「トリスタンの竜退治」や「白い手のイゾルデ」など多くのエピソードが含まれているが、ワーグナーはこれらを刈り込んで独自の台本とした。この結果、『トリスタンとイゾルデ』は、ワーグナーの他の作品と比べて時代色や地方色が著しく希薄なものとなっている。
ワーグナーの台本に特徴的なもののひとつに「媚薬」がある。伝説では脇役的な意味でしかなかった媚薬を、ワーグナーは本作で二人が「死の薬」と信じてあおる設定とした。このために愛は死の中にのみ実現可能という、「愛=死」の強いメッセージを込めることに成功している[28]。これについて、トーマス・マンは「このとき二人は水を飲んでもよかったのだ」と述べている。また、ヴィーラント・ワーグナーは、本作の媚薬は「以前から存在していた愛情を舞台上に視覚化する契機」であり、媚薬が情熱の告白の一歩前にいた二人を告白に踏み切らせたとする[29]。
トリスタン伝説では、イゾルデは二人登場する。本作で主人公格の「金髪のイゾルデ」に対して、もう一人は「白い手のイゾルデ」と呼ばれる人物である。伝説では、トリスタンの傷を癒すために「金髪のイゾルデ」が呼び寄せられたとき、彼女が乗船している船には白い帆を張り、そうでない場合は黒い帆を張るという約束があった。しかし、嫉妬に狂った「白い手のイゾルデ」が、白い帆を黒い帆だと伝えたために、気落ちしたトリスタンはあえない最期を遂げる、というもので、この「白い帆・黒い帆」のモチーフは、ギリシア神話の英雄テーセウスにまつわる伝承が取り込まれたと見られる。
ワーグナーの当初の構想でも、「白い手のイゾルデ」が登場し、白い帆・黒い帆の趣向が含まれていたが、結果的にこれらは取り入れられなかった。ただし、第3幕での「喜びの旗」は白い帆の翻案であり、牧人の吹く「嘆きの調べ」と「陽気な調べ」は、黒い帆と白い帆を音楽で表現したものにほかならない。このように、台本化に当たって、演劇と音楽双方においてワーグナーの創意工夫が認められる。
さらに第3幕前半では、古代ギリシアのホメーロス(紀元前8世紀後半頃?)に由来する伝統的手法であるTeichoskopia[30]を採用している。これはギリシア語で、Teichos(壁)とskopein(見る)を組み合わせたもので、大規模な戦闘などの場面を、見晴らしの利く城壁などに立つ人物が報告するという手法である[31]。ロマン主義の極致と見られがちなこの作品が、実はこのように古典主義的枠組みに収まっていることも注目される[32]。
思想的には、ドイツ・ロマン主義の詩人ノヴァーリス(1772年-1801年)の長詩『夜の賛歌』(1800年)が重要である。『夜の賛歌』は、上記プラーテンのソネットと密接なつながりがあり、ワーグナーにロマンティックな底流を与えた。その内容は、昼に対する夜の優越を歌い、亡くなった恋人の住む死の国と夜を同一視するというものであり、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』第2幕の「愛の二重唱」と重なる。[26][33]。
また、ワーグナーは本作作曲の直前に詩人ゲオルク・ヘルヴェークの薦めでアルトゥル・ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読んでおり、トリスタンの死のイメージは、ショーペンハウアーの厭世の哲学と結びついていると考えられている。とはいうものの、ワーグナーのショーペンハウアー受容は直線的でなく、自己の芸術の裏付けに都合の良い部分が利用されている面がある。これについて、トーマス・マンは『ショーペンハウアーに関するエッセイ』(1938年)で次のように述べている。
「トリスタンがショーペンハウアー哲学から影響を受けているという主張は否定されている―〈意志の否定〉が問題とされる限り、それは正しい。というのも、ここで取り上げられているのは、確かに愛の詩であり、愛において、性において意志はもっとも強く否定されるからである。しかしまさに愛の神秘劇としてこの作品は、徹底的にショーペンハウアー的色彩を帯びている。そこでは、ショーペンハウアー哲学の中から、いわばエロティックな甘美さ、陶酔的なエッセンスが吸い上げられているのに対し、教訓の方は放置されているのである。」[34][35]
『トリスタンとイゾルデ』は、ワーグナーの全作品中で唯一「神」の名が出てこない作品である。しかし、その随所に、聖書に基づく暗喩が登場する。具体的には以下の点である。
トリスタンは第2幕の幕切れでメーロトの剣先に自ら飛び込み、第3幕では傷口を覆った包帯を自分で引きはがすといった行為から自殺願望が認められる。トリスタンは第2幕で自分の故郷を「光の射さない国」、「暗い夜の国」と呼んでおり、ある意味生まれながらにして「死の国」の住人であり、トリスタンにとって愛は死と不可分であった[36]。
このように、「死のうとして死にきれない」点で、トリスタンは『パルジファル』のアンフォルタスと同類であるという推測が成り立つ。事実、1854年の構想段階では、第3幕で聖杯の騎士パルジファルが登場して病床のトリスタンと対面するという場面が含まれており、のちに断念された経緯がある。聖書の暗喩やパルジファル、アンフォルタスとの関連からは、トリスタンの死が単に解決としての死以上のものとして意図されていることを示す。
ワーグナーは作曲当時、ティツィアーノの絵画「聖母昇天図(Assunta)」に強い感銘を受け、「アスンタは聖母ではない。愛の清めを受けたイゾルデだ」と言ったという。この発言は聖母マリアを俗人の域に引き下げる面とともに、逆にイゾルデを聖母の域に引き上げる両面性を持っている。第3幕において、ストーリー上はトリスタンの傷の治療のためにやってくるイゾルデだが、上記の暗喩によってある種の聖性を獲得しており、治療者というだけでなく、恋人に魂の救いをもたらす救済者という性格が付与されているのである[37]。
加えて、音楽上でも第3幕を結ぶロ長調の主和音は、属和音が強調されないために変格終止と見られ、これが宗教音楽や遠い過去を想起させるときに用いられる手法であることから、浄化したイゾルデの最期に宗教的イメージを重ねたものとされる[38]。
一般に『トリスタンとイゾルデ』は、17世紀から19世紀にかけてのヨーロッパ音楽の基盤となってきた古典的機能和声の崩壊につながる画期をなす作品とされる。この革新は、半音階を徹底的に推し進めることによって達成されており、それがもっとも顕著に現れているのが第1幕への前奏曲である[35]。
ここでは作品の主要動機のいくつかが紹介される。冒頭に半音階的下行フレーズAが現れ、これにつづいて4音による上行フレーズBがつづく。フレーズBは冒頭のフレーズAの反行形である。フレーズAの終わりとフレーズBの始まりが連結される際に生じる和音(ヘ-ロ-嬰ニ-嬰ト)が「トリスタン和音」と呼ばれるもので、劇中のさまざまな重要な場面で現れる[39]。これが繰り返されて一段落すると、チェロに「眼差しの動機」が現れ、上昇していく。
冒頭の下行する半音階的フレーズAは「トリスタン」、「トリスタンの負傷」、「悲嘆」、「告白」などの名称が与えられるが、究極的な分類を拒む点で、この作品に特徴的である(#ライトモティーフの用法を参照)。つづくフレーズBとの対照から、フレーズAを「憧憬の動機A」、「トリスタンの愛」または「苦しみ」、フレーズBを「憧憬の動機B」、「イゾルデの愛」または「歓び」などとする場合もあり、後述する解釈につながる。
また、第1幕への前奏曲はそのまま第1幕の音楽へとつながっているが、この前奏曲と第3幕終結部を組み合わせた形で演奏会でも独立して演奏される。「初演の経緯」で述べたように、作曲者のワーグナー自身が終止部を書き残しており、こうした演奏の仕方を認めている。この演奏会形式について、ワーグナー自身は「愛の死」と「(イゾルデの)変容」と呼んでいたにもかかわらず、前奏曲と「愛の死」というタイトルが伝統的に定着している[5]。
1859年12月9日にマティルデ・ヴェーゼンドンクに当てた手紙に同封されたワーグナーの表題的解釈は次のとおり[40]。
……この愛のドラマの導入曲のために、このテーマ「愛の憧憬や欲求がとどまるところを知らず、死によってしか解決しないこと」を選んだ作曲家は、テーマがまったく独特で制約のないものであることを感じ取っていたため、いかに自らを制限するかということだけに気をつけた。というのも、このテーマのもたらす可能性を汲み尽くすことは、まったく不可能だからである。―そこで彼は、ただ一度だけ、しかし長く分節された一つの線で、もっとも控えめな告白と、もっとも儚い献身から始め、不安な溜息、希望と畏れ、嘆きと望み、歓喜と苦悩をへて、もっとも強い衝動、もっとも激しい努力へと、その満たされることのない欲求を高めていった。それは途方もなく熱望する心に無限の愛の歓喜の海へ到達する道を開き、突破口を見いだそうとする欲求である。しかし、無益なことだ! その心は気を失い、沈んでいってしまう。なぜなら、憧れるものを一度手に入れたとしても。それは再び新たな憧れを呼び起こすからである。そして最後に衰えた眼差しが疲れ切ったとき、そこには気高き歓喜に到達する予感がほのかに浮かび上がってくるのである。それは死の、もはや存在しないことの、そしてわれわれが狂おしくそこへ入ろうとすればするほど、まったくそこから迷い離れてしまう、かの奇跡に満ちた天国における最後の救済の歓びである。―それを死と名づけようか。
この表題的解釈は、第1幕への前奏曲の理念と構造を解き明かすための出発点となっている。各段落を要約すれば、以下のようになる。
「トリスタン和音」は1919年、エルンスト・クルトが「ワーグナーの《トリスタン》におけるロマン派の和声法とその危機」において、この和音が西洋音楽史における機能和声の崩壊の象徴的存在であると見なしたことで有名となった。とはいえ、この和音自体はバッハの時代にも見られるものである。また、19世紀後半にあって、ワーグナーほど機能和声に執着し、聴き手にこれを意識することを要求する作曲家も少なく、「トリスタン和音」が機能和声崩壊の主たる原因といえるかどうかは疑わしい、との指摘がある[41]。これによれば、「トリスタン和音」は和声進行だけでなく楽器法とも密接な関係にあり、和音の機能を一義的に和声体系のなかで固定するのでなく、むしろ多義的な性格がその特徴であるとする。
「トリスタン和音」のもっとも代表的な解釈は、この和音を「予備なしの掛留和音」としてとらえ、第2小節の最後の和音でイ短調の「重属七和音の第2転回型」が現れ、第3小節で嬰イ→ロに「属七和音の基本型」に解決する、というものである。しかし、楽器法はこの解釈と衝突する。すでに述べたように、動機Aのグループは「トリスタン和音」で消え、動機Bのグループはこの和音から入る。つまりAとBが重なるのは「トリスタン和音」のみであり、これは和声進行ではなく、不協和な響きそのものをとくに強調しようと意図されたものである。また、属七和音は本来主和音に解決することが期待される緊張をはらんでいるが、ここでは「トリスタン和音」という、より強い緊張感を持つ和音のあとに来るために、一種の解決のようにも見られることは、和音本来の機能が異化されていることになる[42]。
作曲家のエルンスト・ブロッホは「ワーグナー<トリスタンとイゾルデ>における逆説」において、「トリスタン和音」について以下のように述べている。
「入り口の扉のところに、早くも難解で調性を確定しがたい、前奏曲のあの<トリスタン和音>がある。この和音は多くの場合において、ひとつのまったく巨大な断層である。その和音は、憧れを、そして2人の人間の間で互いが互いをのぞき込むような<と(und)>の象形文字なのであって、この<と(und)>は夜が更けゆくにつれて溺れ、沈み込むことによって高まってゆく。」[43]
『ニーベルングの指環』では数あるライトモティーフ(示導動機)を駆使しているワーグナーだが、『トリスタンとイゾルデ』においては、ライトモティーフの使われ方は限定的である。第1幕の「海(航海)の動機」、第2幕の「昼(光)の動機」、第3幕の「嘆きの調べ」や「カーレオールの動機」のように明確なものはあっても例外的である。
全曲の核となるのは、第1幕冒頭の「憧憬の動機A」(半音階的下行)および「憧憬の動機B」(半音階的上行)であり、この作品のあらゆる場面に遍在している。しかし、この二つのモチーフ自体が相反する性格を持ちつつ、しかも組み合わせて呈示されるために、命名=固定することによって、たちまち矛盾を来すことになる。このことは、「他と区別するために」用いられるべきライトモティーフが、本作では音楽的に関連していて「区別しにくい」状態にあることを示す。こうした「区別」と「関連」の関係は、後述する「移行の技法」とも重なっている[44]
ワーグナーは音楽の流れが途切れることを嫌い、旋律の区切りで終止感のある和音を使わずに音楽がなお先に進むような印象を与えたり(偽終止)、一つの旋律が終わらないうちに新しい旋律が前の旋律に一つの線でつながるように工夫を凝らした。これを「無限旋律」という[45]。
例えば、第1幕第1場でイゾルデの歌い終わりの部分「風よ、ご褒美にあげようじゃないの」では、強い決意を表明するために、イゾルデの旋律はハ短調の主音で結ばれる(zum Lohn! の箇所)。このとき、楽器法の上でもハ音に集中し、終止感を高めている。しかし、一方で和声は解決せず、さらに半音階上行・下行で緊張を高めている。つまりここでは、区切りを設定しつつ音楽の流れを止めないために、両極端の手法が同時に使用されている。こうした音楽の連続性を、さらに大局的に用いたものを、ワーグナーは「移行の技法(Die Kunst des Überganges)」と呼んだ。
1859年12月29日付、マティルデ・ヴェーゼンドンク宛の手紙でワーグナーは次のように述べている。
「この、もっとも繊細で、もっとも滑らかな技法の最高傑作は、もちろん『トリスタンとイゾルデ』第2幕の長大な場面です。第2場の冒頭では、きわめて激しい感情の諸相のなかで、漲りあふれる<生>が表現され、そして最後には、もっとも厳粛にして内密な<死>への願いへと至ります。これが二つの柱となるのです。そこで可愛い貴女、私がどうやってこの柱を結び合わせ、どうやって一方から他方へ橋渡ししたかを見てください。これが、私の音楽形式の秘密にほかならないのですから。」
ワーグナーが「漲りあふれる生から、もっとも厳粛にして内密な死への願いへ至る」と言及している第2幕第2場の過程は、ドイツの音楽研究家カール・ダールハウス(1928年-)の指摘によれば、間奏(ブランゲーネの「見張りの歌」)をはさんだ「昼の対話」と「夜の歌」から成っている。この両者はそれぞれ異なる原理で作曲されている。「昼の対話」では、「昼の動機」を絶えず反復することによって動機による統一性、「夜の歌」では、伴奏のシンコペーション・リズム、変拍子とカンタービレ旋律、増三和音など動機以外の要素に共通性が持たせられ、滑らかな移行が図られるのである。
「移行の技法」はこれまで多くのワーグナー研究者によって引用されてきたものの、分析はされなかった。その最初の試みがダールハウスのものであり、このような「複数の原理による創作」は、現代においてようやく意識されるようになってきた概念といえる[46][47]。
『トリスタンとイゾルデ』が初演されたミュンヘン・バイエルン国立歌劇場では、現代に至るまで以下の指揮者と演出家がコンビを組んできた。
1958年のカイルベルト/ハルトマンまでは概ねト書きに忠実な演出であったが、1980年のエファーディング演出はシンプルで直線的、モダンな舞台装置となった。これは、当時のドイツ語圏の歌劇場に共通するスタイルである。
1998年のコンヴィチュニー演出からはコンセプトが激変する。第1幕ではエーゲ海を走るクルーザーを思わせる情景となり、トリスタンとイゾルデの運命的な愛が「ひと夏の恋のアバンチュール」のように読み替えされるなど、オペラ全体がパロディー化された。こうした大胆な読み替えは、現代オペラ演出の一般的な風潮となってきている[51]。
ワーグナーが創立した「バイロイト音楽祭」では、第二次世界大戦後にヴィーラント・ワーグナーによって「新バイロイト様式」と呼ばれる象徴的な舞台作りが誕生する。「新バイロイト様式」は、最小限の舞台装置と抑制された演技を特徴とする。1960年代のカール・ベーム指揮によるライヴ録音がヴィーラント演出によるものであり、このとき主役を歌ったヴォルフガング・ヴィントガッセン、ビルギット・ニルソンの二人もまた心理表現に重きを置いた革新的なものであった。
1980年代からは、ダニエル・バレンボイム指揮、ジャン=ピエール・ポネル(1932年-1988年)演出によるプロダクション(歌手はルネ・コロ、ヨハンナ・マイアー)がひとつの頂点とされる。ポネルの演出は、台本の指定を大きく離れることなく独自の幻想的で美しい舞台を特徴とする。ただし、第3幕の最後では、舞台が暗転、明るくなるとトリスタンがひとり横たわっており、すべてがトリスタンの幻想であるかのように読み替えられていたことが物議を醸した[52]。
1990年代では、バレンボイム指揮(歌手はジークフリート・イェルザレム、ヴァルトラウト・マイアー)、ハイナー・ミュラーの演出、エーリヒ・ヴォンダーの舞台装置によって、登場人物を閉ざされた空間に置いて閉塞感・緊張感を強調したものとなった。衣装担当は山本耀司で、主要歌手に首枷を思わせる輪を付け、逼迫した心理状況を視覚化させた[53]。
『トリスタンとイゾルデ』は、19世紀ヨーロッパ音楽の代表的作品とされるだけに、第二次世界大戦前から各種の録音が存在する。
作品の全貌をディスクで初めて明らかにしたのは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団によるスタジオ録音(1952年、EMI)である。ルートヴィヒ・ズートハウス及びキルステン・フラグスタートの歌唱も戦前のワーグナー演奏の典型といえるものである。
カール・ベーム指揮によるバイロイトでの録音(1966年、DG)は、その新即物主義な解釈が、ヴィーラント・ワーグナーによる演出とともに「新バイロイト様式」を完成させたモニュメントと言える。また、指揮者、演出家とともにヴォルフガング・ヴィントガッセンやビルギット・ニルソンなどの配役は毎年固定され、このアンサンブルは戦後のワーグナー演奏の典型とされた。
そのほか以下のようなものもある[54]。
なお、名作オペラブックス7 『ワーグナー トリスタンとイゾルデ』の「ディスコグラフィについての注釈」(筆者はディートマル・ホラント)によれば、「歌手の力量は1950年代の終わりの録音では明らかに下がり始めている」などとし、上記ショルティ盤、カラヤン盤、クライバー盤などをいずれも批判している。ここでは、フルトヴェングラー盤を「現在までのトリスタン解釈の歴史の中で、これが例外的な地位を占めている」としつつ、1936年のフリッツ・ライナー指揮によるコヴェント・ガーデンでのライヴ録音(Naxos)及び1941年のエーリヒ・ラインスドルフ指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団によるライヴ録音(Naxos、いずれも主役はラウリッツ・メルヒオールとキルステン・フラグスタート。第2幕と第3幕にカットあり)が、音質の点で失うものがあってもなお「伝説的な演奏」であるとして評価している。[24]。
音楽学者の広瀬大介は、上記のような評論を「時代ごとの演奏スタイルにも流行り廃りがある。世代の異なる歌手同士を比較する意味はあまりない」と批判している。メルヒオールの歌唱法については「声の威力に頼り、全体を一本調子で歌い、表現に演技的要素をほとんど感じられない」「現代の聴き手が過去の評論家と同じように感じることは、なおいっそう難しくなっているようにすら思われる」と述べる[55]。 広瀬はまた、第二次大戦後の1950年代を境に、戦前・戦中期のパワー至上主義的な歌手から、演技力・声の表現力で勝負する歌手が増えてきたとし、「ヴィントガッセン、ニルソンは、ちょうどその中間にあって両者の特徴をほどよく兼ね備えていた」と評している[56]。そしてカラヤン盤でトリスタンを演じたヴィッカーズを、新しい時代のワーグナー解釈を世に問うた最初期の歌手とし、「聴き手に情景を想像させることのできる歌を披露したという意味で、新世代、録音時代のテノールというにふさわしい存在だった」という評価を下している[57]。また、クライバー盤のコロについて、第3幕のトリスタンが自暴自棄になっていく部分を「ほとんど演劇的とすらいうべき強靱な表現を手に入れた」と述べている[58]。
「トリスタンのピアノ編曲が生まれた瞬間から、―おみごと! フォン・ビューロー殿![59]―私はワグネリアンになっていた。(中略)しかし私は今でも、<トリスタン>と肩を比べることができるほど危険な魅力に満ち、無限の戦慄と甘美を併せ持つような作品を求めている。」[60]
『トリスタンとイゾルデ』は画期的な内容を持つが、その以前にワーグナーに影響を与えたと見られるいくつかの音楽作品がある[5]。
『トリスタンとイゾルデ』は後世の作曲家に大きな影響を与え、ワーグナーの生前から20世紀に至るまで、生み出された作品の多くに本作からの引用やパロディが見られることでも知られる。以下はその代表的なものである。
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