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うんすんカルタ(宇牟須牟/宇武須牟加留多/雪寸加留田)は、室町時代にポルトガルの船員たちから伝わったトランプを日本でつくりかえたカルタで、主にチーム戦によるトリックテイキングゲームで遊ばれる。
ポルトガルより伝来したカルタ(南蛮かるた)、それを国産化したカルタ(天正カルタ)は、48枚(12ランク × 4スート)であったが、「うんすんかるた」は、より多人数で遊べるようにカード枚数を拡張したもの。文献では1681年(延宝9年)にまで遡ることができる。
スート | ||||
名称 | パオ | イス | コツ | オウル |
---|---|---|---|---|
ポルトガル語 | Paus | Espadas | Copas | Ouros |
意味 | 棍棒 | 刀剣 | 聖杯 | 金貨 |
当時のポルトガルのカルタは、棍棒・刀剣・聖杯・金貨の4スート、絵札は女王・騎馬・国王だったが、それぞれのスートの1にはドラゴンが描かれていた。天正カルタはこの特徴を忠実に受け継いでおり、「うんすんカルタ」はグル(巴紋)というスートが加わり、それぞれのスートにウン(福の神)スン(唐人)、さらにロバイ(1から独立させたドラゴン)の絵札を加え、75枚(15ランク × 5スート)からなる。騎馬や国王は鎧兜の武士の姿へと日本風に変化したが、女王が女性であるというポルトガルのカルタの特徴をなお受け継いでいる。
このカルタは文献では普及した痕跡が見られず、人々から忘れ去られていたが、唯一熊本県人吉市鍛冶屋町に伝統的な遊戯として継承され続けおり、遊戯法が県の重要無形民俗文化財に指定された。人吉市では「備前かるた」とも呼ばれ、これは備前藩の姫がこの地に嫁いだときに持参したためだという。
娯楽が多様化した昭和初期以降には遊ぶ人が激減。1965年(昭和40年)3月に熊本県から重要無形民俗文化財に指定された時には、少数の高齢者だけになっていた。1979年(昭和54年)、熊本県かるた協会の会長だった鶴上寛治が地元の高校に教師として赴任して興味を持ち、古老からルールを学び、札を復刻して消滅を防いだ[1]。2003年(平成15年)には人吉市の「鍛冶屋通りの町並み保存と活性化を計る会」が、うんすんカルタの復興に向けた活動を開始。翌年には駐日ポルトガル大使を招き友好親善を掲げた大会が開催されて、現在も大会は継続している。
第二次世界大戦前までは、「うんすんカルタ」から「天正カルタ」が創られたと思われており、今なおそう書いてある文献があるが、事実は全くの逆である。「うんともすんとも言わない」の語源がうんすんカルタから来ていると言われることが多いものの、元来は「返事もなければ息もしていない」という意味であり、1712年(正徳2年)に近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃『弘徽殿鵜羽産家』では、すでにその表現が見られ、うんすんカルタが廃れた時期以前であることを鑑みると「ウンスンかるた」が語源ではないと考えられる。「ウン」はポルトガル語で「一」のことだが、「スン」が「最高点」を意味するというのは、1924年(大正13年)に新村出が『南蛮更紗』 で仮説として発表したことがいつしか定説化しており、これには本人も前置きしているが、根拠があるわけではなく想像の域を出ていない。
この「うんすんカルタ」に、さらに弓矢のスートと新たな絵札(クン)を加え、更に棍棒の1(アザまたはアサ)を増やした「すんくんカルタ」97枚(16ランク × 6スート + 1枚)も元禄期に考案された。
スート | |||||
名称 | パオ | イス | コツ | オウル | クル |
---|---|---|---|---|---|
ポルトガル語 | Paus | Espadas | Copas | Ouros | Curso |
意味 | 棍棒 | 刀剣 | 聖杯 | 金貨 | 前進 |
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