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フランスの軍服(フランスのぐんぷく)はフランスの軍人により着用される衣類であり、主に陸・海・空軍及び海兵隊の制服を指す。本項では陸軍に制服が導入されたルイ14世の1660年代以降現在に至るまでのフランスにおける軍服の変遷及びその世界各国への影響について述べる。
1661年にルイ14世が親政を開始し、フランスはヨーロッパの政治・文化の中心となった。そして、軍制や服飾に関してもフランスがヨーロッパにおいて主導的な役割を果たすようになった。
しかし、18世紀に入ると軍服に関してはドイツの影響が強まり、フランスも1762年にはドイツ式の制服を採用した。また、男性用服飾一般についてはイギリスの影響が強まり、1720年頃には自然主義の影響でイギリスの服装が流行した。そのため、フランス革命の頃に現われた様々な新しい服装の多くはイギリスを始めとする、外国で生まれたものであった。
フランスは革命からナポレオン戦争の過程で近代国民国家の軍隊の原型を作り上げた。しかし、ナポレオン1世は軍事制度や戦術においては革新的である一方、服飾等の文化芸術面に於いては復古的であり、軍隊の制服もルイ16世時代に逆戻りした。そのため、この時代のフランスの軍服が他の国に与えた影響はほとんど見られない。
ナポレオン1世によって時代遅れとなったフランスの軍服であったが、19世紀中頃、当時ヨーロッパのファッションリーダーの1人とされていたナポレオン3世の時代になると、軍服に関してもケピ帽などの独自のデザインが見られるようになった。この「フランス式」はドイツやイギリスがリードする世界基準に対する「個性」として、他の国にも影響を及ぼした。現在でもかつて影響を受けた諸国の礼装や旧フランス領から独立した諸国の軍服にその特徴が見られる。
以下、まず陸軍軍服を中心に時代ごとの変遷を述べ、ついで海軍、空軍の軍服について述べる。
フランスのルイ14世が1661年に親政を開始し、同年、軍制改革の一環としてペルシャやトルコ風のジュストコール(Justacorps/上着)、ジレ(Gilet/胴着)、キュロット(半ズボン)、クラバット(Cravat/ネクタイ)、シャポー(帽子)等から成る東洋風の新しい服装を制服として導入した。この服装はヨーロッパ各国でも採用され、その構成は現在に至るまで紳士服の基本となっている。
それ以降、18世紀初頭までは上着はあまり変化がなかった。しかし、18世紀半ばごろより上着を開いてベストを見せるような着こなしが流行し始める。それに伴い、上襟が生まれた。18世紀末になると襟は次第に高くなり、詰襟へと変化していった。また、丈の長いジュストコールは乗馬には不便であり、裾を折り返して留めるタイプが見られるようになる。さらに1780年ごろからは上着の後方のみを残し、着丈を詰めるスタイルが現れるようになった。これが燕尾服の原型である[1]。
また、小銃の普及に伴いツバの大きな帽子は邪魔になったため、1660年代から片側のツバが跳ね上がり、1680年代ごろからは反対側のツバが跳ね上がり、1700年代までにかけて三角帽子(トリコルン)が主流となる[2]。さらに17世紀半ば、プロイセンやオーストリアでは三角帽子の前面の膨らみが狙撃の邪魔になることから次第に後退して無くなり、二角帽子へと変化して行く[3]。軍服としては、ジャンビエール(脚絆)が使用されるようになった。
この時代に特筆すべきものとして、エポレット、肋骨服、「ナポレオン・ジャケット」が挙げられる。エポレットは、1759年から階級章として用いられるようになった[4]。肋骨服は、オスマン軍によって滅ぼされたセルビア騎兵がイェニチェリの軍装をハンガリー騎兵に広まらせたものが発祥と言われており[5]、肋骨(ドルマン)の上に更に肋骨を施したペリースと呼ばれる上着を斜めがけした。もっとも、フランス軍はルイ14世の時代からオスマン帝国に離反した元ハンガリー騎兵を雇っており、その頃から彼らのドルマンの上にペリースをかける独特のスタイルは認識されていた[6]。プロイセン軍やオーストリア軍でも、ボタンホールに肋骨風の装飾がされていた部隊がある。しかし、ルイ15世の時代までは騎兵もナポレオン・ジャケットであり、これが騎兵の軍装として導入されたのはルイ16世末期の時代である。
また、ナポレオン・ジャケットとは、同時期にプロイセン軍で使用されていたフロックコートをポーランドのウーランが双方向から留められるようにした燕尾服型のジャケット(プロイセンでも逆輸入されウーランカと呼称された)のことで、1786年に導入された[7]。ナポレオンに好まれたことから「ナポレオン・ジャケット」と呼称される。由来の通り本来は騎兵の軍装であるが、フランスでは歩兵や擲弾兵、工兵など広く好まれた。
騎兵のボタンは黄色と白があり、連隊ごとに決まっていた[8]。
フランス革命軍の軍装は1798年に制定され、ルイ16世時代の1786年制式を継承したナポレオン・ジャケットが着用された。ただし、キュロットは貴族的な服装として否定されボトムスに長ズボンが用いられるようになったほか[9]、将官はハーフコートに代わって同年8月7日にドイツ式ダブルブレスト開襟のフロックコートが導入される[10]。二角帽はこの時に完成形となり、側面にコカルド(円形章)が付いた[9]。また、将官は頭頂部に三色旗のポンポンが付く[11]。常備軍は白い軍服を着ていたため白軍団(レ・ブラン)、志願兵・召集兵は青い軍服を着ていたため、青軍団(レ・ブリュ)と呼ばれる[12]。
大陸軍の軍装は、帽子や装備には変化が見られるが、服装はルイ16世時代の1786年制式を復古した形となった。ボトムスは革命の頃にアンシャン・レジームと見なされたキュロットに戻された。このように旧態依然とした軍装ではあったが、前述のように戦列歩兵のナポレオン・ジャケット、ユサールの豪華絢爛な装飾を施した肋骨服やシャコー、元帥らの大きなエポレットなど、その武名とともにナポレオン時代の象徴として認識されたものも少なくなく、袖口のボタンはナポレオンが考案したという俗説まで生まれたほどである[13]。
なお、変更点を挙げるならば、1803年にエポレットの付いた詰襟燕尾服型の大礼服(フランス語: Grand tenue)と略装(フランス語: Petite tenue)が導入される。1804年の元帥制度導入により、元帥たる将官は金刺繍3割増しで二角帽に白色羽根[14]、帽子はナポレオン戦争間の1807年より[15]、二角帽子は将校、下士卒は本来騎兵のものであったシャコー帽を被るようになる。二角帽はイギリス式の縦被りとなった。また、騎兵の作業帽として「ボネ・ド・ポリス」(フランス語: Bonnet de police)[† 1]と呼ばれる、頭頂部にカルパック(英語ではバズビー)の舌を出したフェズ帽ないしナイトキャップのような山型の帽子も使われ始めるようになる。このボネ・ド・ポリスはイギリス騎兵でも導入され、ギャリソンキャップの発祥の一つになったといわれている[16]。また、フランス本国でも略帽として発展し、現在に至るまで使われている。
しかし1810年代になると、絢爛豪華さを誇っていた装飾は次第に衰えを見せ、それに伴い軍も装飾の廃止や軍装の統一に乗り出すようになる[17]。連隊ごとに様々な色彩だった上衣はプロイセン軍のプルシアン・ブルーに似た紺色へと統一され、また、復古王政成立後の1829年には砲兵や植民地部隊を除く全兵科に赤いズボンが制定された。こうして、100年近くに渡ってフランス軍の象徴となる紺色の上衣に赤い袴のスタイルが確立されることになる。
19世紀中期になると、重火器の発達に伴いフランス軍の軍装は更に簡素化し、普仏戦争以降はいよいよ機能性を強いられるようになる。とりわけ、革や毛皮で重厚に固められていた帽子は大幅に軽量化された。1830年代仏領アルジェリアを発祥としてシャコー帽を簡略化したケピ帽が登場し、以降制帽として全軍に浸透する。また、騎兵が花形であった時代は終焉を迎え、19世紀末には砲兵ともども肋骨服から他兵科と変わらないシングルブレストタイプの軍衣となった。
これらの変更は各国の模倣するところとなったが、それも20世紀に至るころには既に時代遅れとなっており、そのまま第一次世界大戦に突入することとなる。
なお、1845年ごろから上衣は燕尾服ではなく、前後均等に丈の長い形状となる[18]。また、19世紀半ば以降は高襟は廃れ、将兵ともども襟を折り曲げるかほとんどないほど低くしたスタイルが流行し、中には襟もとからシャツを覗かせ蝶ネクタイを付ける者も見受けられる。しかし、普仏戦争ごろから台布の上に所属連隊や兵科を示す徽章を付けた襟章が規定された。この襟章は日本陸軍38式軍衣の「鍬型」の原型ともなった。
以下、各詳細について解説する。
元帥は引き続きMle1804を着用、一般将官用大礼服は、1857年時点でシングルブレストの燕尾服型アビに白いキュロットと長靴(徒歩時は赤いズボンと短靴)、二角帽であったが[19][20]、第二帝政崩壊後の1872年4月15日に両者の礼装の区別はなくなり、大礼服もフロックコートタイプのものが登場した[21][22]。二角帽だが、シャコー帽を被ることもある[23]。
騎兵・工兵を除く将校の略装は1830年時点では燕尾服であったが、1847年改正にて丈の長いシングルブレストの詰襟9つボタンとケピ帽に変更、1860年に細部改正がなされた[24]。
1867年8月14日よりダブルブレストのフロックコートとなり、1870年7月15日改正で直線の袖章が入る[25]。
将官は第2帝政崩壊後の1871年に黒い肋骨服が導入され[26]、後述のMle1893導入後も好んで着用された。
歩兵を中心とした佐官・尉官では1882年に2点胸ポケットの付いた7つボタンシングルブレストのチュニックを導入するが[27]短命に終わり、翌1883年には中央に7つのボタンの入った肋骨服を着用[28]。
しかし、1893年には紺のシングルブレストの軍衣が採用される。9つボタンで袖に3つボタンが付いており、腰に2点雨蓋なしタイプのポケットが付く。後裾に2列各3個のボタンとベントが入っている。騎兵はやや遅れて1898年にこのMle1893とよく似た軍衣が導入された。
工兵は1786年以来の伝統的な前合わせの黒いナポレオンジャケットであったが、1872年ごろにダブルブレストのフロックコートとなる。Mle1867/70と似ているが、袖口に3列のボタンが入る。1883年には歩兵と同一の肋骨服となった[29]。
外套は1872年にインバネスコート型が導入された[30]。1875年には前兵科共通でペリースをも導入した[31]。
1818年から参謀本部要員は青い制服を着用していたが、第2帝政時代の1852年、参謀本部要員向けの軍装が規定された[33]。一般将校が大礼服・略装の2種類であるのに対し、大礼服・略装・野戦服の3種類からなる。大礼服の袖章は三角形で、襟には鋸歯状の襟章が入った。略装の襟には参謀本部の徽章が入る。野戦服(tenue de campagne)はスパッヒのような丈の短い肋骨服に二段の無限結びの袖章が付く。帝政崩壊後は一般将校と同じMle1867/70を着用した。
1860年制定ではシングルブレストで袖口に3つのボタンが付き、肩にはエポレットを付けたが[34]、1867年に将校同様のダブルブレストに変更され袖口ボタンを廃止[27]。1870年に9つボタンシングルブレストの短ジャケットとなり、エポレットも廃止された。
また、下士官および徴募兵たる伍長には1893年に9つボタンシングルブレストの礼装が制定されたが[35]、1897年に7つボタンに変更された[36]。このほか、第2帝政期には1860年に近衛兵用軍衣が制定された。シングルブレストの9つボタンで、前合わせにドルマン風の装飾が入る[37]。この上にダブルブレストのコートあるいは雨具としてインバネスコートを羽織っていた。
軽騎兵および砲兵のドルマンは丈を腰上まで詰めたものであったが、1872年以降は通常の丈となる[38]。竜騎兵はナポレオン・ジャケットであったが、猟騎兵はボタンホールに肋骨型の刺繍が入る[39]。胸甲騎兵は1845年以降も燕尾服を維持していたが[40]、1859年12月14日の改正で丈が長くなり[41]、将校は1871年12月以降袖に銀線が入る。1884年以降、丈が少し短くなった[42]。
ペリースは1845年制式ではドルマンと同様に細かい肋骨が入っていたが[43]、1855年より6本へと簡略化され丈も長くなる[44]。1884年改正では5本になり、丈は袖と同じ高さにまでなった[45]。
砲兵将校も軽騎兵と同様だが、黒いズボンで赤い側線が入る。この側線は2本の太線の間に細線が入る。ただし近衛砲兵士官のみ両側の太線が黄、中心の細線が赤となる。1898年には将校の肋骨服が廃止された。
砲兵は1873年にシングルブレストのジャケットが制定された。歩兵用Mle1870ジャケットと似ているが、丈がやや長い点、肩章がある点などが異なる。1900年には砲兵・騎兵共通してシングルブレストのジャケットが制定された。下士官には1872年に7つボタン2列のフロックコートタイプの礼装が制定された。
シャコー帽は、装飾を大幅に撤廃したMle1810は先に広がる形状であったが、1812年をピークに1845年制定[46]および1852年制定、1860年制定[47]と経るにつれ逆に先細りとなり、チンスケールも簡略化される。72年将校用、74年騎兵用[48]などは帽子の丈が更に小振りになった。
また、1891年よりボネ・ド・ポリスを営内作業帽として導入。
1910年代までは依然として19世紀来の紺色の上衣に赤い袴という格好であったが、WW1開戦後、ホリゾンブルーの上衣および袴が導入されるようになった。1915年より外人部隊やアフリカ系部隊などの植民地軍にはカーキー色が導入されていたが、本国では一貫してホリゾンブルーのままであり、戦後の1935年にようやくカーキ色となる。また、同時に高襟スタイルは廃れ、将兵ともに上衣の襟元からシャツの襟とネクタイをのぞかせるようになった[49]。
将校の軍装では、開戦直前の1913年に野戦服が採用された。上下貼りポケットで前が隠しボタンとなっている。この野戦服は1915年ごろから簡略化され、通常のシングルブレストとなる。立襟と立折襟が長らく混在していたが、1929年には立折襟の制服を採用[50]。1935年に襟からシャツをのぞかせるようになって以降、1938年5月には開襟となった[50]。ただしこれはMle1929上衣の一番上のボタンを外して襟を広げただけのものであり、代わって1939年2月にはノッチト・カラータイプの開襟の制服が導入された[50]。 一方、それまで将校の常服として使われていたMle1893は礼装として扱われるようになり、礼用襟章が追加される。1921年になると上下ともにホリゾンブルーに変更、礼用襟章の形状も変更される[51]。1931年には再度上衣の色は黒となり、金色の袖章が追加される。植民地仕様に白のタイプも存在した[52]。ケピは1919年と1931年にそれぞれ細部の改定があった。
兵士は9つのボタンの付いた紺色の短ジャケットのMle1870、下士官は7つボタンで肩章の付いたMle1897を着用していたが[53]、1914年より腰部分に2点貼りポケットの軍衣が導入された。翌1915年にフラップタイプへと変更、1920年には大き目の折襟の軍衣が導入され[49]、1935年改正でカーキ色となる。1938年にも改定があったが、全部隊に支給もままならず開戦となった。
ナチス・ドイツによるフランス占領後、自由フランス軍では米軍や英軍からの軍装が供与された。一方、ヴィシー政府では引き続き従来の軍装が維持された。
戦後、制服は従来の様式を留めつつも戦闘服は機能化が進められ、米英式の被服を導入した。例えば1947年には、アイクジャケット型の将校勤務服を導入しているほか、戦闘服でも米軍式のフィールドジャケットや空挺降下服、ヘルメットを導入。リザード迷彩の空挺部隊が60年代に様々な政治的汚点を残したことから一般部隊への迷彩配備は遅れていたが[55]、90年代以降CE迷彩を使用したF2迷彩服やT3迷彩服が導入された。
夏季型のT21と冬季型のT22がある。女性はダブルブレストでポーラーハットとなる[56]。
一般部隊では1947年に米軍のM1943風のオリーブ色戦闘服を導入していたが、1967年に独自の戦闘服(素材から「サテン300」とも呼ばれる)を開発。このサテン300は丈が短く、襟が大きく折り返され、胸にジッパー止めの垂直スリットポケットが2つ付く[57]。1980年改正でF1と呼称される。1980年代半ばより耐久性の向上、腰の絞り紐をゴム絞りに変更、襟裏のフラップの追加など改正されF2と呼ばれる[55]。1994年、両脇腹部ポケット2点が廃止され、袖口がシャツカフス式となり現在に至る[55]。また、2000年代からフェリンT3、2010年代からフェリンT4が導入された。
空挺部隊では、M1942ジャケットをベースにTAP47降下服を製作。51年、52年、53年、56年に細部変更が行われた。色はオリーブとリザード迷彩の2種類があった。南ベトナム軍へも供与された。また、ポケットのフラップ部分のボタンが隠し式となったTTA-47、第二次中東戦争期に米軍のM51を模して作られたMle1951迷彩服[58][59]もあった。
ヘルメットも1951年よりM1型のヘルメットとなった。1956年に落下傘兵向けの派生型として顎紐等安定性を高めたモデルが開発された[60]。1978年より、Mle1978ヘルメット(通称F1ヘルメット)を導入。しかしこれらのマンガン鉄鋼合金ヘルメットはユーゴスラビア紛争にて脆弱性が露見したため、ケプラーよりも強力なスペクトラ繊維を樹脂加工して作られたフリッツヘルメット型のSPECTRAヘルメット(通称F2ヘルメット)を導入[55]。デンマーク、カナダ、ウクライナなどにも輸出されている。
外人部隊は「ケピ・ブラン」と呼ばれる兵用の白いケピ帽で知られている[61]。下士官は黒いケピ帽を被り、「ケピ・ノワール」と呼ばれる[61]。
19世紀に植民地各国で現地人が徴用されるようになると、現地の気候に合わせ伝統衣装を取り入れた独自の軍服が形成された。
まず、北アフリカでは、歩兵であるズアーブ兵や植民地軍狙撃兵、軽騎兵であるスパッヒの下士卒および現地人将校にはシルワールと呼ばれるゆったりとしたズボンと「セドリア」と呼ばれるボレロ状の衣服が使われ、その上には赤い飾帯を巻き、ターバンやクーフィーヤ、シェシーア(フェズ帽)などが被られた。セドリアとシルワールはそれぞれ色合いが異なっており、ズアーブは紺色、植民地軍狙撃兵は上下ともに水色、スパッヒは上衣は赤で下衣は水色となっている。また、用途に合わせてバーノスと呼ばれるマントを羽織ったり、ガンドラと呼ばれるコート状の衣服を着用する事もある。
将校も色合いなどが独自の仕様であり、ズアーブ将校は上衣がプリーツのマンテル、植民地軍狙撃兵は水色、スパッヒは赤の肋骨服であった。
植民地軍狙撃兵将校の軍衣は、1853年2月に制定された際はプリーツ入りの9つボタンの長マンテルであった。1883年もしくは84年に肋骨服となり、1895年にMle1893と同じ裁断の長マンテルタイプとなった[62]。将校用礼装は1893年に制定された7つボタンのシングルブレストであったが、1931年に9つボタンへと変更、また丈が長くなった[63]。下士卒も1923年にシルワールとセドリアの伝統的な服装を廃し、Mle1920に似た裁断のカーキ色の野戦服を導入。1932年には礼装をもやはりMle1920に似た裁断の折襟7つボタンの上衣へと変更した[64]。この礼装は1935年に詰襟となった[65]。
スパッヒの将校用礼装は丈の短い肋骨服で、1842年に6本から7本へと変更された。肩より肋骨の2本目に重なるように黒い飾緒を付けていたが1860年に廃止された。また、1858年には長マンテル式の略装が導入されたが、1873年4月に廃止された[66]。その後は色合いを逆転させ、植民地軍狙撃兵のように水色の肋骨服に青いパイピングの入った赤い袴を着用していたが、1900年に再度色合いを戻し、Mle1893と同じ長マンテルタイプの赤い軍衣を導入[67]。
モロッコ現地兵(グミエ)は「ジャラバ」と呼ばれるヤギの毛が織り込まれた伝統的衣装を着用し、足にはサンダルとホーストップを履いていた。ジャラバの模様や色は部隊ごとに異なっていたが、1944年〜45年ごろには黒と茶色、グリーンの細線が織り出された汎用型のタイプが登場した[68]。
上記とは異なり植民地部隊の所属だが[69]、インドシナではインドシナ狙撃兵が編成され、中でもトンキン狙撃兵はアオザイ風の前合わせにゆったりとしたズボン、ノンラーが着用された。
こうした独自の軍服も兵器の発展とともにバーノスやガンドラと呼ばれるコート状の衣服、あるいは熱帯被服に取って代わられるようになり、スパッヒの名前が形骸化した現在ではその必要性も失われたため、式典の際にのみ通常の軍服の上にバーノスを羽織る、フェズ帽の代わりに赤いギャリソンキャップを被るなどの記号的表現、あるいはシルワールとセドリアの伝統的な服装を着用するに留まっている。
ケピ帽が植民地での戦闘から生まれたように、多くの植民地を抱えたフランスにとって熱帯用被服の導入は大きな課題であった。 将校は1892年(1895年とも[70])にライトカーキ色の熱帯用被服が登場する。裁断は翌年のMle1893によく似たシングルブレストタイプの詰襟だが、胸と腰に各2点ずつポケットが存在する。1931年にはM1929に似た折襟の被服が導入された[71]。このように将校は内地での被服と大差ない意匠だったが、下士官兵は1898年に3つボタンの詰襟シングルブレスト、1914年に折襟ダブルブレストの上衣が導入され、この上にオーバーコートを着用する事もある。
1937年になると、半袖半ズボンの熱帯用被服が採用される。将校は階級章を当初胸に付けていたが、第二次世界大戦勃発後は肩に移行した[69]。
将校には白のサンヘルメットと上衣、ズボンの略礼装が用意された[69]。この略礼装は詰襟であったが、1931年改定で詰襟タイプと開襟タイプの2種類が登場する。
フランス、北アフリカ、中東勤務のみが連隊番号を付ける[69]。 これらの熱帯用被服も、戦後のブレザータイプのMle1958をもってフランス植民地帝国とともに終焉を迎えた。
フランス海軍の軍服は1669年に制定され、海軍としては世界初である[72]。将官は青いジュストコールの下にいずれも赤いベストとキュロット、靴下を着用した[72]が、それ以外は個人の裁量が大きかった[72]。18世紀末には上着の前合わせが赤、それ以外はキュロットも紺色となる。ナポレオン時代の19世紀初頭の頃は紺色の燕尾服スタイルとなり、ズボンは白と紺色の2種類があった[73]。19世紀末〜20世紀初頭ごろに他国同様にイギリスの影響を受け、官帽やダブルブレストの上着が導入されたが、襟を折襟にするなど独自の試みも行われた。第2次世界大戦以降現在までは、士官や下士官の冬季制服はダークブルーのリーファージャケット、夏季制服は白いブレザーとなっている。兵はセーラー服で頭頂部にポンポンが付いている。
第一帝政時代、ボタンホールと襟、袖口に装飾の入った詰襟シングルブレストの燕尾服である勤務服も着用された[74][75]。
1853年1月29日付規定ではともに燕尾服の大礼服と通常礼装、リーファージャケットの略装の3種類があった。将官の大礼服と通常礼装は詰襟シングルブレスト、佐官・尉官は大礼服は詰襟、通常礼装は開襟のダブルブレストである。将官の大礼服は陸軍と酷似しているが、襟の装飾に錨が付いている事で判別できる。1876年規定で通常礼装が廃止され、略装にエポレットを付けることとなった[76]。1891年6月3日付規定で第1種〜第5種までが区分され、1902年細部改定により第3種、第4種のリーファージャケットは折襟となった[77]。
将校相当官は大礼服でもエポレットを付けず、文官用肩章を付けた[78]。また、将校と同時に行われた1891年6月3日付規定では技官、測量官、衛生の各刺繍の分類がなされた[79]。
空軍は「ルイーズ・ブルー」と呼ばれる紺色のシングルブレストのブレザーにズボンで構成される[80]。制帽の腰部分には階級に応じて金線が入り、クラウン部は夏季にはカバーを付ける。
空軍の軍服が制定されたのは1929年である。制定当時は前合わせは5個ボタンで、袖にも陸軍のように3個のボタンがあり、襟はピークドラペルであった[81]。 1934年改定で前合わせは4個ボタンに変更され、袖のボタンは廃止、襟はノッチドラペルとなった。これが現在にいたるまでのフランス空軍の制服のベースとなる。
下士官用は将校と同一であるが共布地のベルト、上襟に襟章を付ける[82]。
兵用は制定当初は下士官や将校のそれとは大きく異なっており、前合わせ6個ボタンの折り襟で襟の中から陸軍のようにシャツとネクタイをのぞかせ、腰には2点の切れ込みポケットが入っていた[82]。1939年以降は襟1番目のボタンを広げ開襟とした。現在は下士官や将校と同一である。
普仏戦争の惨敗によってフランス軍は各国の模範としての座を退いた。しかし、絢爛豪華なエポレット、シャコーなどの装飾は各国の礼装に影響を残し、また常装でもアメリカやイタリア、日本のようにショルダーストラップ型の階級章を導入した国もある。
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