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フランス外人部隊(仏: Légion étrangère, 英: French Foreign Legion)は、フランス陸軍所属の外国籍の志願兵で構成される正規部隊である。
外人部隊 | |
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外人部隊の隊旗 | |
創設 | 1831年3月10日 |
所属政体 | フランス |
所属組織 | フランス陸軍 |
通称号/略称 |
FFL (英語) L.É. (仏語) |
愛称 | The Legion |
標語 | オヌール・エ・フィデリテ |
守護聖人 | 聖アントニウス |
戦歴 |
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特記事項 | 部隊記念日は4月30日(カマロンの日) |
部隊の象徴は、「7つの炎の手榴弾」である。
総兵員数は約8,360人である[1]。
1831年に創設されて以来現代まで一貫して存続している。 フランスに限らず、ヨーロッパにおいては戦争の際にスイス人など外国人の傭兵が活躍することが多かったが、近代になるとほとんどの国で軍隊は徴兵制度による国民軍の形態を採るようになった。これはフランス革命戦争およびナポレオン戦争でフランスの国民軍が、他国の寄せ集め職業軍人集団である傭兵隊に対し圧倒的な強さを見せたためである。
「国民軍」を生み出したフランスにおいて外国人による純然たる職業的戦士集団から構成される外国人部隊の設立に至った経緯は、皮肉にもナポレオン戦争によって創設・普及した国民軍の一員として戦った多数の青壮年男性が命を落とし、その後も産業革命による生活水準の向上と男性の生産年齢人口の激減、男女比の歪みが響いて人口が伸び悩んだことで兵力の確保に問題を抱えるようになっていたことに起因する。さらに1830年から始まったアルジェリア征服戦争では、征服予定地のアルジェリアへ派遣されたフランス国民軍の間に非常に多くの死傷者を出していたため、国民の非難を受けることを怖れた政府は、それまでの傭兵とは異なった、自国軍の士官によって外国人兵士を指揮する、正規軍と同じ地位を与えられた部隊[注釈 1]の設立に踏み切った。かつてワーテルローの戦いで総参謀長を務めたこともあるスールト軍事大臣の取り纏めで、1831年3月10日、ルイ・フィリップ国王の署名によって誕生した。
外人部隊は、当初フランスの北アフリカにおける植民地支配・権益確保を主任務にしていたが、後には他地域・他任務へも利用されることになる。長らく本部はフランス最初期の植民地であったアルジェリアのシディ・ベル・アベスにあったが、1962年アルジェリアが独立してからはコルシカに移転[2]している。
設立初期の外人部隊は、設立の経緯から、アルジェリアで活躍し、その後もアルジェリアに駐屯することが多かった。
その後のナポレオン3世の第二帝政下で、クリミア戦争、イタリア統一戦争、メキシコの内政への武力介入などに派遣され、多方面で戦争を繰り広げ、フランス外人部隊は各地の戦闘で活躍した。後にアンリ・デュナンが赤十字を創設するきっかけとなった1859年のソルフェリーノの戦いでは、第2外人連隊がオーストリア軍を相手に敢闘した。1863年のメキシコのカマロンの戦いではダンジュー大尉率いる部隊がメキシコ軍との間で行った外人部隊史上に残る全滅を覚悟しての激戦は、メキシコ軍の司令官であったミラン大佐 (es) に「こいつらは人間ではない、鬼だ」と賞賛された。
普仏戦争敗戦後のパリ・コミューンを鎮圧したヴェルサイユ軍においても、その一部として投入された外人部隊3個大隊が中心的役割を果たし、清仏戦争でもインドシナ派遣軍に参加した外国人部隊が清朝軍と戦闘を交えた。
これ以外にもスーダン、ダホメー(ベナン)、マダガスカル、カサブランカ(フランス領モロッコ)と植民地での活躍は数え切れない。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、100ヶ国を超える国の国民が外人部隊に志願し、とくに初期にはリソルジメントの英雄ガリバルディの孫が率いる「ガリバルディ旅団」がドイツ軍相手に奮戦した。記録によれば、1930年から1939年にかけて日本人も60名参加している。当時最も多かったのはイタリア人約6千人、ロシア人約5千人であった。この頃、ゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリヒ主演のアメリカ映画「モロッコ」が製作され、当時の外人部隊の姿を忠実に伝えていると賞賛された。
1939年に勃発した第二次世界大戦では、フランスは開戦後まもなくナチス・ドイツに降伏したため、フランス国内にいた外人部隊の多くはドイツ軍の指揮下に入り、縮小した。インドシナ植民地は日本軍の平和裡の仏印進駐を受け入れたが、フランス本国の政変(ヴィシー政府の崩壊)にともなう1945年3月の日本軍のクーデター(明号作戦)によって外人部隊も多くの犠牲を出し、中国の雲南省へ逃れた部隊もあった。
1946年に勃発したインドシナ戦争では、フランス国内の厭戦気分が強く、徴集兵は使い物にならなかったため、外人部隊が重用され、1953年のディエンビエンフーの戦いに投入されたフランス軍17個歩兵大隊中、7個大隊が外人部隊であった。第二次世界大戦後、帰郷が困難な元ドイツ軍人や戦犯逃れのため入隊した元ナチス親衛隊も参加していた。 そのため外人部隊の隊歌はドイツ軍や親衛隊からの影響を受けている。
1954年に勃発したアルジェリア戦争では、外人部隊の本部がある地であるだけに重要な役割を果たし、1958年には第1及び第2外人落下傘連隊が参加する第10落下傘師団長マルシュ将軍を中心とするアルジェ駐屯軍がド・ゴール将軍を擁立して大統領の地位に就けた。しかし、ドゴール将軍がアルジェリア独立に傾いたため、1961年にアルジェで第1外人落下傘連隊を中心とする反ドゴール反乱が起ったが失敗、多くの将軍や将校が逮捕された。ドゴールは外人部隊自体は解散せず、反乱に積極的に参加した第1外人落下傘連隊を解散させるなど大幅な改編を実施、司令部をマルセイユ近郊のオーバーニュに移し、ストラスブールにも駐屯させた。
その後も1969年から1971年にかけて勃発したチャドへの介入、1978年から現在まで、対テロ戦争中のレバノンでの国連暫定軍を含む、地中海周辺の平和維持活動、1978年のコルヴェジの戦い(旧ザイール、現コンゴ)、 1981年から1984年にかけてにレバノン内戦におけるレバノンの部隊と国連多国籍軍での平和維持活動業務などがあげられる。
1991年勃発の湾岸戦争にも派遣されるが、以降2020年まで現地に関わる。1991年以降はフランス国籍民と民間人の避難誘導を目的にルワンダ、ガボン、ザイール、1992年にカンボジアとソマリア、1993年にサラエボ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、1995年に再びルワンダ、1996年に中央アフリカ共和国、1997年にコンゴ-ブラザビルなどに、1999年以来KFORでコソボと北マケドニアに派遣されている。
2001年以降は対テロ戦争に対して、2001年から2014年にかけて不朽の自由作戦でアフガニスタン、2002年にはコートジボワールの紛争に対しフランス政府は旧宗主国として外人部隊を派遣している。
2008年にはチャドのEUFOR Tchad / RCAで、2013年から2014年にかけてマリ北部紛争におけるセルヴァル作戦などに外人部隊を派遣している。
フランス外人部隊の構成員は、将校は基本的に全員フランス国籍を有する者で、フランス軍の陸軍士官学校や正規軍下士官からの将校任官を経て外人部隊に配属されたものであり、下士官以下は基本的に外国人志願者で、第1外国人連隊において募集、採用される。よって、将校は完全にフランス正規軍の採用枠で入隊し、下士官以下とはまったく別物であるが、能力と実績があれば、外国人志願者が兵卒から叩き上げて将校となることも可能であり、外人部隊において、そのような経歴の将校は約10%を占める。
外国籍の構成員は、フランスの法律によってフランス陸軍軍人の地位を与えられており、傭兵の募集、使用、資金供与及び訓練を禁止する条約で禁止されている傭兵ではない。
フランス外人部隊では、兵卒を外国人応募者の中から選抜して合格した者を契約という形で採用する。建前として将校以外にフランス国籍を有する者はいないとされ、内部では公用語としてフランス語のみが使用されるとしていたが[3]、2022年現在ではフランス語は入隊後に学べるため不要ではあるが簡単な英語が使えることが好ましいこと、入隊後3年経過時点でフランス国籍の申請が可能であると募集要項に記載されている[4]。
一般的に、各国の正規軍は、同盟国の軍を含めた公的組織からの人材の受け入れや、戦時における徴兵及び志願基準の緩和などの特例を除けば、生まれながらのその国民以外・または市民権や永住権を持たない者の入隊を拒否している。フランス外人部隊は「外国籍の者であっても、フランス軍に正式に志願・入隊する事ができる特別部門」と捉えればよい。
入隊資格については国籍、人種、宗教に関係なく17歳以上、40歳未満の健康な男性なら入隊可能[5]。
(18歳以下の場合、両親の承諾書が必要)
応募に関しては、第1外人連隊が設置する募兵所へ赴いた応募者を受け付けるという形で行われ、入隊の際は本名を変更し、外人部隊特有のアノニマと呼ばれる制度によって偽名にすることが要求される。近年は本名のまま入隊できる傾向にある。
建前では「外人部隊への兵卒の志願者は外国人に限る」とする入隊条件は、フランス国民であってもフランス系外国人と申請することで回避できることがあり[6]、実際に多くのフランス人が志願している。その場合、入隊時に国籍をモナコやカナダ(フランス語圏があるため)、スイスなどに変更し、フランス国民の志願者は全員、氏名、生年月日、出身地、両親の名前、母親の旧姓まですべて変更されて書類上まったくの別人に変わることになる。(通常は年齢と国籍はそのまま変わることはないが、フランス人の場合はその国籍が変更となる)その後すべての正式書類(軍の身分証、生命保険、郵便貯金の口座、社会保障など)は偽の名前、生年月日で発行される。
偽名制度のため、また任務に殉じる覚悟があるならば国際指名手配された者でない限り素行等は問わないとして、駆け込み寺的に犯罪者が入隊することもあった。近年では、中等教育修了以上の学歴や正規の国籍が要求され、経歴の調査も厳しく行われ、特に犯罪で手配中の者や刑事処罰を受けたことが判明した場合は入隊できないなど、採用基準は厳しくなっている。
このような形で選抜を通過、採用された者は、契約期間を5年間とする初回の契約をフランス政府と交わすことになる。初回の契約期間を満了した後の任期の延長は6ヶ月から5年までの申告制で、続けるか辞めるかの選択も自由で、延長契約は半年、1年、1年半、2年、2年半、3年という様に半年単位で決めることができる。たとえば初回の契約の満了後に半年だけ延長し、その後、1年半延長するというようなこともできる。
最近では採用人数が徐々に減少傾向にあり、2022年現在での合格率は20%程度と採用は以前に増して非常に狭き門となっており、外人部隊全体が縮小傾向にある。
外人部隊における新兵訓練は約4ヶ月間で、この間にフランス語の習得を含めた戦闘訓練を第4外人連隊において受ける。訓練内容は非常に厳しく、軍隊経験者でも無事に訓練を終えることができるのはごく少数である。部隊配属後も規律や訓練の厳しさに堪えかねて脱走する新兵が絶えない。かつては、契約期間を満了するか、再起不能の負傷による除隊を除いて中途離脱を認めず、脱走者は八方手を尽くして探索していたが、現在は、脱走兵の探索はほとんど行わず、訓練期間中の自発的な除隊も認めている。
契約期間中は、海外派遣で出国する場合は原則としてフランスの発行するパスポートを所持して行動することになる。アノニマによって登録した偽名を本名に戻す手続き(RSM)が完了し、海外休暇申請をすれば休暇の時のみパスポートが戻ってくる。または5年以上の勤務年数であればパスポートは個人管理となる。近年では制度が変わり、本名に戻せば5年未満の隊員でもパスポートは個人管理となる。
外人部隊に所属する外国人の軍人は、出身国に対する戦闘への参加は拒否できる権利が認められている。現在130ヶ国以上の国籍の者が部隊で活動している。
入隊から3年以上が経過し、税金を滞納することなく、フランス国籍取得の申請手続きが通ればフランス国籍を取得できる。近年には、戦闘で再起不能の負傷をした者は契約満了を待たずにフランス国籍が与えられることになっている。
15年以上勤務すればフランス軍人の軍人年金の受給資格を得ることができる。勤務年数と階級によって受給額が変わり(階級が高ければ高いほど、勤務年数が多ければ多いほど、受給金額が増していく)、除隊してからは母国に戻った後も生涯に渡って受給できる。
フランスに定住せず、出身国へ戻った外国籍の元外人部隊構成員の福利厚生に関しては、各国に所在するフランス大使館が取り扱うことになっている。
(外人部隊の名誉なる規範)は、1980年に制定された部隊規範。
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