西隆寺
奈良県奈良市西大寺東町付近にあった古代寺院 ウィキペディアから
奈良県奈良市西大寺東町付近にあった古代寺院 ウィキペディアから
奈良盆地北部、西大寺北東の平城京右京一条二坊、現在のならファミリー・サンワシティ西大寺付近に位置した。奈良時代後期の770年頃に称徳天皇の意向で創建された尼寺で、創建当時は西大寺に続く格式を有した官寺であったが、その後は衰退し、鎌倉時代までには廃絶して田畑化している[1]。
寺域では1971年度(昭和46年度)以降に発掘調査が実施されており、金堂・塔・回廊・厨・東門・南面築地塀などの遺構が検出されているが、未だ全容は詳らかでない。現在までに史跡整備は実施されておらず、一部の遺構のみ標示されている。
西隆寺の創建については、『続日本紀』神護景雲元年(767年)8月29日条に「従四位上伊勢朝臣老人為造西隆寺長官」と見えることから、この年に造営が開始されたと推測される[2]。また『日本三代実録』元慶4年(880年)5月19日には「令西大寺摂領西隆寺尼寺、此両寺、是高野天皇創建」と記載されており、西隆寺は尼寺であり、高野天皇(称徳天皇)による創建で西大寺の管理下にあったことが知られる[2]。
寺域は平城京右京一条二坊の九・一〇・一五・一六坪の4町を占めるが、発掘調査によれば、西隆寺造営以前には寺地を四等分する形で南北・東西に道路(条坊小路)が通ったことが認められている[3]。
神護景雲2年(768年)、藤原仲麻呂の越前国旧領・仲麻呂の娘婿である藤原御楯の田地など300町が施入された[2][4]。
宝亀2年(771年)には、僧綱印および大安寺など12寺の印が鋳造されて各寺に分配されたと見え、そのうちに西隆寺も含まれている[2][5]。また宝亀9年(778年)には、皇太子の病平癒の祈願のため東大寺・西大寺・西隆寺の3寺が誦経している[2]。
長承3年(1134年)の『南寺敷地図帳案』では寺地が記載されている[2]。
その後の変遷は不詳。鎌倉時代の建長3年(1251年)の『西大寺々領検注帳』では西隆寺寺地が田畠として記されていることから、13世紀前半には廃絶したと推測される[2]。
近代以降の変遷は次の通り。
寺域は、長承3年(1134年)の『南寺敷地図帳案』によれば平城京右京一条二坊の九・一〇・一五・一六坪の4町で、東西約250メートル・南北約250メートルを測る[2]。「西大寺旧蔵古絵図」(宝亀11年の絵図を江戸時代に模写)によれば、一条大路に接して南門(南大門)が開かれ、主要伽藍として南門・中門・金堂・講堂が南から一直線に配され、南東に塔が配される[2]。中門左右からは回廊が出て、金堂を取り囲む(回廊外の北側に講堂)[3]。発掘調査では金堂・塔・回廊・厨・東門・南面築地塀などの遺構が確認されている。遺構の詳細は次の通り。
中門・南門は後世に削平を受けているため、遺構としては確認されていない[3]。寺域からの出土品としては、多量の瓦のほか、文字資料として木簡・墨書土器や、土馬・削掛け・木盤・塼仏などがある[2]。
なお寺域での発掘調査では、西隆寺造営以前の条坊小路・掘立柱建物跡が確認されているほか、弥生時代・古墳時代の土器が出土している[3]。
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