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広島市の街路 ウィキペディアから
紙屋町・八丁堀という繁華街を抱える広島のメインストリートであり、広島電鉄本線が通っている。1981年(昭和56年)2月に、該当区間に現在の愛称が付けられた[1]。
上天満町から相生橋・紙屋町・八丁堀地区を経由し広島駅に至る通りを指し[1]、十日市交差点から紙屋町交差点の間(1.0km)は国道183号の一部(広島市民球場南交差点~紙屋町交差点(0.2km)は国道54号別線と重複)、紙屋町交差点から稲荷大橋西詰交差点の間(1.0km)は広島県道164号広島海田線の一部をなしている(いずれも広島市道天満矢賀線と重複)。
元々この通りは広島城の南側外堀にあたる。江戸時代から明治時代まで堀として存在していたが、廃藩置県後必要なくなったことに加え悪臭が目立つようになったことから埋立が決定し道路として整備されることが決定した[2]。同時に整備中だった広電の軌道が引かれることも決まった[2]。
1912年(大正元年)、完成[2]。同時に広電も開通している[2]。1929年(昭和4年)、広島県による市中心部の道路整備計画が建てられ、当時国道として用いられていた本通りから相生通りを新しい国道として整備することが決定し、幅員を13間半(約24.5m)まで広げられた[3]。当時の路線名は「都市計画街路十日市荒神線」[4]。着工は1933年(昭和7年)だが[5]、最終的な整備は1930年代後半[4]までに至った。
昭和初期まで、旧猿楽町(現・大手町一丁目)や旧広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)があった。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下、沿線は壊滅的な被害を受けている。
戦後この通りは拡張工事がなされ1952年(昭和27年)ごろに完成、現在にいたる[2]。
2008年(平成20年)4月1日、十日市交差点から広島市民球場南交差点の間(0.8km)の道路管理者が国土交通省から広島市に移管され、国道54号から国道183号に変更された。なお、広島市民球場南交差点から紙屋町交差点まで(0.2km)は国道54号別線として存続。
なお、第二次世界大戦後、この通りより上流の本川東岸(戦前の軍用地)に形成されたバラック住宅群(いわゆる原爆スラム)も「相生通り」と呼ばれたが、ここでいう相生通りとは無関係である。
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