白山城 (安芸国)
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白山城(しろやまじょう)は、安芸国白市(広島県東広島市高屋町白市)にあった戦国時代の日本の城(山城)。指定名称「平賀氏の遺跡」の1つとして、御薗宇城・頭崎城と共に県の指定史跡[1][2]。
白山城 (広島県) | |
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城郭構造 | 山城 |
築城主 | 平賀弘保 |
築城年 | 文亀3年(1503年) |
主な城主 | 平賀弘保等 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪、土塁 |
指定文化財 | 県指定史跡 |
位置 | 北緯34度27分13.3秒 東経132度49分33.4秒 |
地図 |
文亀3年(1503年)に平賀氏当主の平賀弘保は、居城であった御薗宇城の防備に不安を感じ、白山城を築いて居城とした。しかし、この城も堅城とまではいかず、白市を眼下に望み経済的には有利な城であったが、近隣に滝山城、新開城等の支城を整備して、最終的には頭崎城を築くまでに至った。
平賀弘保の息子、平賀興貞は頭崎城に入ったが、後に大内氏と尼子氏との対応で意見が異なり、親子で度々争った。後に毛利氏の介入によって親子の争いに終止符を打ち、家督を平賀隆宗に継承させた。
城は頭崎城が完成後も維持された。廃城年は不明。
白市の街を見下ろす標高314メートル(比高130メートル)の城山に築かれた山城で、最高所の曲輪は三段に分かれており、その周囲を帯郭が取り囲んでいる。この曲輪群から北西・南の尾根上には中小の曲輪が配置されて防備を固めていた。
城下には平賀弘保が永正2年(1505年)に建立した光政寺があり、一族の木原家の歴代墓所が残る。その木原家は平賀弘保の弟、木原保成を祖とする一族で、初代の保成は慶長5年(1600年)に平賀元相が長門国萩に移住すると、毛利氏を離れて紀伊国和歌山を領した浅野氏に仕えた。その後、この故地に戻って商売を始め、江戸時代初期から酒造業や塩田業を営み、安芸国有数の商家として栄えた。現在でも白市に残る寛文5年(1665年)に建てられた「木原家住宅」は、昭和41年(1966年)6月11日に国の重要文化財に指定されている。
白市は江戸時代に入ると、交通の要衝として栄え、元和3年(1617年)に牛馬市が開かれるようになると、その発展を加速させた。この白市の牛馬市は中国地方の三大市と呼ばれ、伯耆国大山、備後国久井とともに、明治から昭和の戦前にかけて大いに賑わった。
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