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江戸時代後期の藩主 (1818-1863) ウィキペディアから
文政元年(1818年)10月17日、常陸笠間藩主牧野貞幹の次男として江戸日比谷で生まれる。幼少時より聡明であり、西洋通で知られた。小諸藩の第8代藩主牧野康命の養子となり、天保3年(1832年)に康命が死去したため家督を継ぎ、従五位下・遠江守に叙位・任官する。
天保の大飢饉で藩内に大被害を受けると、育児法を制定して子育米を配給するなど、子女の救済を積極的に行った。また、当時は天然痘が流行していたが、未だ種痘は世間に認知されておらず普及していなかった。そこで藩医を長崎に学ばせた上、初めに自分の娘2人に種痘を施しその普及に努めた。これは日本初の種痘の実施である。
安政2年(1855年)には農村救済のために農村復興方を設置した。さらに家臣に二宮尊徳の報徳仕法を学ばせて実施したり、凶作に備えて貯蓄を行なうなどしている。産業の奨励も行ない、領内の小県郡長瀬・立岩などで和紙の製造業が盛んになったのも、康哉の時代からである。
これら一連の藩政の成功は幕府からも高く評価され、奏者番等を経て安政5年(1858年)には若年寄に任じられ、将軍継嗣問題では井伊直弼を支持し、直弼のブレーンとして幕府の中枢で活躍した。文久3年(1863年)6月13日に死去した。享年46。跡を長男の康済が継いだ。
康哉の業績は高く評価されており、懐古園には「牧野公遺徳碑」が建設されている。
天保年間後半に門閥の平均化の作業が行われている。足高制はわずかな例外に留め、家柄に応じて支給する持高を引き下げて、役職手当を整備するという内容であった。
これにより、有能な人材が登用しやすくなった一方で、お家騒動がおきやすい土壌を醸成してしまったことは、否めない。
小諸馬場町大火(現在の小諸市古城二丁目)で知られる木俣家以外は、天保年間末ごろを基準とすれば、用人格以上の格式を持つ家については、次のようなことが言える。
天保年間以降から、廃藩までの期間に、用人格以上の家は、用人職以上に短期間でも、1度は、就任していることが確認できる。つまり、不祥事・非行を繰り返した木俣家(重郎右衛門・多門家系)を例外とすれば、順送り人事によって、栄誉的に花道が作られていたことがうかがわれる。下記掲載の江戸武鑑にある木俣熊之進とは、当家から分家として分出された家である。
「大武鑑・中」に掲載された万延元年(1860年)の武鑑に掲載された家臣。江戸武鑑は、当時の民間出版によるものなので、確実性に乏しい面がある。小諸藩の一次史料と異なる部分が多数ある。
父母
正室、継室
子女
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