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日本の神奈川県三浦市にある神社 ウィキペディアから
海南神社(かいなんじんじゃ)は、神奈川県三浦市三崎にあり、三崎漁港から市街地を少し山手に入った地点に鎮座する神社。相模国三浦総鎮守であり、藤原資盈(ふじわらのすけみつ)、資盈の后である盈渡姫(みつわたりひめ)、筌龍弁財天(せんりゅうべんざいてん)(三浦七福神)、地主大神等が祀られている。源頼朝の敬神の念が厚かった神社であり、頼朝お手植えの御神木や、龍神様の形をした御神木等がある。
清和天皇の治世、藤原資盈は皇位継承争いに絡み、讒訴を被って左遷された。貞観6年(864年)、任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着し、当地の長に推戴された。その後、資盈は房総の海賊を平定した上で、福祉に努めたことから地元民に崇敬され、貞観8年(866年)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀った。
天元5年(982年)には現在の地に社殿が建立され、三浦郡の総社となった。
治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に呼応した和田義盛は衣笠城で畠山・江戸の諸軍と戦ったものの落城、海路房州に逃れた。折悪しく大暴風雨に遭遇し、流されて兵糧が尽きた時、龍神様に御加護を祈ったところ「筌」という竹製の漁具が流されてきた。辛うじてこちらを用いて魚を捕り、主従飢えをしのぐことが出来た。そして、この地に「筌」を祀り、弁財天堂を建立した。
文治元年(1185年)、源頼朝が神社に敬神の念が厚く、祈願成就の記念として、雌雄の大銀杏の御神木をご寄進になられたと伝えられる。
寛永17年(1640年)に池が寄進されたと言い伝えられる。池の中には「水神様」と呼ばれる高さ約2.4メートル、幅約1.9メートルの石碑があり、神像や武人、天狗、修験僧など9体の像が彫られている。かつては、三崎の漁師が出漁する際に海上安泰を祈ったとされる。石碑の制作年や作者は詳細不明。
承応2年(1653年)には正一位に列せられ、享保4年(1719年)には三浦半島の総鎮守となった。
1873年(明治6年)に郷社となり、1907年(明治40年)には神饌幣帛料共進神社に指定されている。
2009年(平成21年)、チャッキラコがユネスコ無形文化遺産に登録された。
2011年(平成23年)3月22日、本殿・幣殿・拝殿が神奈川県指定重要文化財(建造物)に指定された[1][2]。
2021年(令和3年)9月に京急油壺マリンパークが閉館した際、「どうぶつ七福神」は海南神社が引き取っている[3]。
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