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有坂 秀世(ありさか ひでよ、1908年(明治41年)9月5日 - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の言語学者、日本語学者。日本語の音韻史や音韻論に関して業績を遺した。上代特殊仮名遣に関する有坂の法則で知られる。
(慶谷壽信『有坂秀世研究 : 人と学問』 pp.278-289)
有坂が昭和5年12月に東京帝国大学へ提出した卒業論文は、言語学科主任教授の藤岡勝二教授ひとりが目にしたと思われ、現存はしないようである。東京大学文学部保管の記録には成績は記入されているが題目は記入されていない。没後出版された『上代音韻攷』所収の「略年譜」には「奈良時代に於ける国語の音声組織について」とあるが、これは疑わしく、正しくは「奈良町時代に於ける国語の音韻組織について」であったと思われる。また、その内容は、後年『上代音韻攷』で目にする事になる論考の原型であったと推測される[2]。
有坂の国語学上最大の業績は、上代特殊仮名遣における「母音調和」又はその痕跡を発見したことである。 まず「国語にあらわれる一種の母音交替について」(昭和6年12月)において、甲・乙類の仮名に関して、「甲類の仮名に用ゐられた漢字の音は主として明瞭な後舌母音を含み、乙類の仮名に用ゐられた漢字の音は主として中舌的又は前舌的(殊にUmlaut的)の母音を含んでゐる。」と指摘した。 その後、「古事記に於けるモの仮名の用法に付いて」(「昭和7年11月)において、さらに分析を深めて、以下の如き「法則」を発表した。
しかし、この論文の一ヶ月前の同じ雑誌「国語と国文学」昭和7年10月に、池上禎造がほぼ同内容の論文「古事記に於ける仮名『毛・母』に就いて」を発表していた。この「先陣争い」は、原稿の日付と雑誌の出版月が「ねじれ」ており、やや複雑である[3]。しかし、二人の間に争う気持ちのなかった事は、註のとおり明らかである[4]。
「有坂秀世博士が、昭和の言語学界に、彗星のごとく現れて、彗星のごとく去られた、そのあまりにも輝かに、そのあまりにもあえなさ……」
昭和15年12月三省堂、増補版:昭和34年5月三省堂
昭和19年7月明世堂、増補新版:昭和32年10月三省堂
昭和30年7月三省堂。執筆は昭和七年・八年頃。cf.慶谷、上掲書、p.382-383
昭和39年三省堂。執筆は昭和2年10月~3年3月19日までの第一高等学校在学中。cf.慶谷、上掲書、p.318
平成元年6月三省堂
昭和18年2月21日付け金田一京助宛て書簡で、自身の大部分の論文を下記の如く分類している。
この分類に従って、論文を列記する。括弧内は初出雑誌、及び収録著書。
教職・教鞭経験が短いためか(昭和14年4月~15年3月、大正大学においてのみ)、自身の研究態度を明確に述べたものは数少ないが、下記の2編が雄弁に語っている。
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