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江戸時代の牢獄の種類の一つ ウィキペディアから
江戸の牢屋敷は中央部に当番所と称される監視施設があり、これを挟むように東西に牢が置かれていた。東西の牢は外側に向かって口揚屋・奥揚屋・大牢・二間牢の順に配列されており、揚屋はこのうちの口揚屋と奥揚屋の部分に該当する。口揚屋は1部屋あたり広さ2間半の部屋が3部屋(15畳相当)、奥揚屋は1部屋あたり広さ3間の部屋が3部屋(18畳相当)、いずれも半間ほどの大きさの雪隠が設けられていた。また、安永4年(1775年)には江戸の町人出身収容者と地方の百姓(農民)出身収容者を分離するために百姓牢が増設されるが、その中にも別途揚屋が設けられた。なお、大坂の松屋町牢屋敷にも元文4年(1739年)に「男揚屋」(6畳)が設置されている。
揚屋は原則雑居拘禁であり、ここに収容される人々は、次のような人々である。
その他にも、囚獄(牢屋奉行)に手を回して揚屋に収容される者もあったという。
揚屋に送られる人々は牢屋敷の庭まで乗物で護送され、牢役人らによる本人確認(揚屋入)の後に収容された。揚屋も一般の収容者が入る大牢も待遇面には大差が無かったが、揚屋の方が凶悪な収容者と同室になる可能性が低かった。また、大牢とは別に揚屋にも牢名主が設けられていた。また、軽微な罪を受け有宿の者数名が揚屋の付人とされ、世話係としての役目を行った。
なお、諸藩の武士は身分を問わず、一律に揚屋に収容されたことから、歴史的に著名な人物が収容されていた事例もある。例えば、蛮社の獄の渡辺崋山、安政の大獄の吉田松陰などはその代表例である。
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