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平安時代後期の武将 ウィキペディアから
平頼盛の家人[4]であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという[5]。
仁安元年(1166年)、正六位上で右衛門少尉となり、同3年(1169年)に左衛門権少尉となる[6]。また、後白河院の北面武士となっており、院領であった大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預を務めたりもしている[7]。
治承・寿永の乱で平家が都落ちした後の元暦元年(1184年)6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった[8]。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかった事で落胆している。
子の家清は出家して都落ちには同行せず、元暦元年(1184年)7月に本拠伊勢国で三日平氏の乱を起こすが、鎌倉方に討ち取られている。
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