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日本のアルパインクライマー、山岳カメラマン (1979-) ウィキペディアから
平出 和也(ひらいで かずや、1979年5月25日 - 2024年7月27日滑落[注釈 1])は、日本人アルパインクライマー、山岳カメラマン。登山界で最も名誉とされるピオレドール賞を日本人で最多の3度(2020年時点)受賞している[3]。石井スポーツ所属[4]。
平出 和也 (ひらいで かずや) | |
---|---|
生誕 |
1979年5月25日 日本、長野県諏訪郡富士見町 |
失踪 |
2024年7月27日(45歳) パキスタン、K2 |
現況 | 滑落[1] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東海大学 |
職業 | アルパインクライマー、山岳カメラマン |
著名な実績 |
8000メートル峰6座登頂 エベレスト4回登頂 |
身長 | 169 cm (5 ft 7 in) |
受賞 |
日本スポーツ賞(2001 第17回ピオレドール賞(2009) 日本スポーツ賞(2009) 第17回秩父宮記念山岳賞(2015) 第21回植村直己冒険賞(2017) 第12回ピオレドールアジア賞(2017) 第26回ピオレドール賞(2018) 第28回ピオレドール賞(2020) 第32回ピオレドール賞(2024) |
長野県諏訪郡富士見町出身で、同県辰野町小野で育つ。小中学校では剣道で長野県3位となった。
1995年4月、東海大学第三高等学校に入学すると陸上部に所属し、競歩の選手として活躍、全国大会で6位入賞。高校時代は訓練のため赤岳など日本の山を陸上スタイルで走って登っていた。1998年4月東海大学に入学、高校時代に引き続き1,2年時は陸上部で競歩に取り組み、日本選手権では10位となった。大学2年の秋に競歩への情熱が冷め[3]、3年時より陸上部を離れ山岳部に所属。4年生の春、チベット側からのヒマラヤ山脈遠征に加わった[3]。
2001年に未踏峰クーラカンリ東峰(7,381m)に初登頂を果たし、日本スポーツ賞を受賞した。
2002年、カラコルム山脈のパキスタン北部エリアを訪れ、未踏の山やルートへの想いを募らせた。ゴールデンピーク(7,027m)を目標に選んでパートナーを探して登山家に声をかけ、応じた谷口けいと2004年に北西稜の初登攀に成功した[3]。
2008年7月、同じICI石井スポーツ所属のプロ登山家竹内洋岳からの誘いで8,000m峰のガッシャーブルムⅡ峰とブロードピークにサポート兼カメラマンとして参加し、連続登頂に成功。2008年10月のカメット峰 (7,756m/インド) 南東壁未踏ルート初登攀の功績によって、谷口けいと共に「第17回ピオレドール賞」を日本人として初受賞[5]。同功績により日本スポーツ賞も受賞。山岳スキー競技選手権アジア選手権団体リレー優勝、個人バーチカル5位、個人総合4位。
2013年5月、ミウラエベレスト2013隊に参画し三浦雄一郎の80歳でのエベレスト登頂を撮影した[6][7]。2014年、NHKテレビ番組「グレートトラバース」で日本百名山一筆書きに挑戦した田中陽希に撮影スタッフとして同行した。翌年、続編の日本二百名山一筆書きにも撮影スタッフとして同行している。
2015年12月、世界的な山岳登攀と独自の技法による撮影実績が讃えられ、第17回秩父宮記念山岳賞を受賞した。2017年2月には「誰にもまねできない冒険と撮影を両立している」として第21回植村直己冒険賞を受賞、2017年11月には同年の8月22日に達成したシスパーレ (7,611m/パキスタン) 北東壁未踏ルート登攀の功績によって平出の新たなパートナーでもある中島健郎と共に「第12回ピオレドールアジア賞」を受賞し[8]、翌2018年には同功績で2度目のピオレドール賞となる「第26回ピオレドール賞」を受賞した[9]。谷口けいは2015年に北海道の大雪山系で遭難死しており、平出はシスパーレ山頂の雪中に谷口の遺影を埋めた[3]。
2019年7月にパキスタンのカラコルムのラカポシの未踏の南壁ルートから登頂し、翌2020年に同功績で3度目のピオレドール賞となる「第28回ピオレドール賞」を中島健郎と共に受賞した[10]。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により現地入りできない状況が続いていたが[11]、2021年12月17日、パキスタン北部カラコルム山脈の未踏峰(6,020m)に三戸呂拓也と共に初登頂。登頂後、この未踏峰に過去挑戦した登山隊の現地ハイポーターで遭難死したサミ ウッラー カーンに由来してサミサールと命名した[12]。資料では標高6,020mだったが、高度計は6,380mを示していた[13]。
登山を始めた初期は「命をかければどんなルートも登れる」と思っていたが、カメット山頂近くで滑落してパートナーの命もかかっていることを自覚。慎重な性格で様々な忠告をしてくれた谷口には感謝している。未踏峰や新ルートへ挑み続けるのは、自ら課題を見つけて「答え合わせ」をすることに意義があると語っている。垂直に近い登攀ができるようになったのは登山用具の進歩が大きいとしつつ、酸素の薄い高山を自ら荷物を担いで速攻登山するスタイルであるため、可能な限り1日20キロメートルのランニングと1時間ほどの水泳で鍛えている。撮影することは社会との接点であり、それに触発された若い登山家がアルパインクライミングに関心を持ち、支援者の層が広がるメリットもあるとしている[14]。
実家のある富士見町にツリーデッキをつくり、遠征前に帰省して心身をリセットしたり、ブランコで子供を遊ばせたりしている[14]。
2024年夏、中島健郎をパートナーとして、かねてから準備していたK2西壁に挑む。しかし7月27日、登攀中に標高約7500メートル付近で滑落[1][15]。2人の位置は救助に来たヘリコプターから確認されたが標高が高く急峻な場所であり接近が困難であった[1][16]。滑落以降2人に動きがなく、さらに上部に大きな氷塔があり崩落による二重遭難の恐れがあることなどから、家族の同意の下で30日に救助活動が打ち切りとなり、同日深夜に所属先の石井スポーツが同社ホームページで発表した[1][17][2][18]。その後、同年8月22日、石井スポーツは同社ホームページで「(事故に関する)最終の報告」として、遭難により死亡したとの見解を示し、両名に対し追悼の意を表明するメッセージを発出した[19][20]。
竹内は、2008年7月のガッシャーブルムII峰とブロードピーク登頂計画で、平出をサポート兼カメラマンに指名した。その理由として、「映像などの記録を残したい」「何かあったときの為に身近な人がいてほしい(連絡等が円滑になる)」「強い。自分がだめになっても登山を続行できる」ことを挙げた。
2005年、インドのシブリン峰で、谷口けいと未踏ルートの踏破に挑んだ際、荷物の選定を誤った(用具を増やし、食料・燃料を減らした)ことから、登頂には成功したが、足の指を3本切断することになった。この時の教訓は、2008年のカメット登頂に生かされた[29]。
2010年11月7日、平出およびドイツ人パートナーのディビット・ゲットラー(David Göttler)はヒマラヤ山脈のアマ・ダブラムに遠征中、未踏ルートにこだわり北西壁新ルートを進んだ。その後、2人は、切立った山肌で身動きが取れなくなった。平出がヘリコプターで下るのも一つの方法と案を出し、携帯電話にて救援要請した。その要請を受け、Fishtail Air社の山岳救助のヘリコプターが出発した。ヘリはまずゲットラーを救出、さらに平出の救出に向かった。しかし、ヘリは聳え立つ巨大な6,300メートルの氷壁とクラッシュを起こし、1,500メートル崖下に墜落した。パイロットのSabin Basnyat(34歳)と技術者のPurna Awale(34歳)の2名が死亡した。ネパール軍はこの時点で現場の危険度を顧み、救助ヘリを出すことを拒否した。その後、死亡したパイロットの友人にあたるパイロットがFishtail Air社のヘリで平出を救出した。この事故においてゲットラーと平出の2人は救出されたものの、地元のネパールの救援隊員2名が死亡するという結果となった。死亡した救援隊員は、過去にスイスで山岳救助の訓練を受けていたという。スイス国営放送は、彼らの死を悼んで番組を作成し、救援隊員の訓練当時の姿、事故後に嘆き悲しむ残された妻子などの家族たちや、葬式の模様が報道された[30][5]。平出は、この事故で登山を辞めることを考えたが、亡くなったパイロットの葬儀に出席した際、両親から「新しい命をもらったと思って登山を続けていって欲しい」と言われたという[29]。
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